聖書のメッセージ:一つの集会が聖書の新たな認識を私にもたらした

    2019年 08月 19日

    寄稿家:彩虹(マレーシア)

    私の霊は暗闇の中でしおれていたが、偶然のきっかけから聖書学習特別クラスに出会った

    「ママ、ママ、どうしてまた寝ちゃったの」

    娘に目を覚まされて、またも祈りの途中で眠りに落ちたことを思い出し、私は大いに罪の意識を感じました。長く正座していたせいで感覚が麻痺していた両脚を叩いて立ち上がり、窓際に歩きました。夜空にかかる澄んだ明るい月を眺めていると、過去を思い出さずにはいられませんでした。

    私は若いころに神様を信じ始めてもう三十五年になっていました。聖書に熱中するあまり日曜学校の教師を務めるだけでなく、自分が所属する教会のクリスチャン青年団で管理者にもなり、いつも熱心に主に仕えていました。しかしこの数年間、自分の霊がどんどんしおれるのを感じ、聖書からもそれほど明るい光を感じられず、聖書学習クラスで兄弟姉妹を導くときも力を大いに奮い起こすことができませんでした。牧師が説教を通じて私に栄養を与えてくれるのを切望しましたが、いつも同じ古いことを説教するばかりで新たな光はまったくありませんでした。私は聞いた話に喜びを感じず、霊も供給を受けていませんでした。牧師の説教を聞きに来た信心深い人たちの大半は、単に宗教的な儀式を守って動作を繰り返すだけです。心から誠実に神様を崇拝していた人はほとんどおらず、教会の状態は一層悪化していきました。こうした状況に直面した私は、信仰を取り戻す道を見つけようと聖書の学習を続けましたが、何も発見できないままでした。当時、私はよくこう考えました。「私の霊はいま沈んでしまって、お祈りの途中で眠りに落ちる有様だわ。私はいまでも主の信者なのかしら。主は私をお見捨てになったのかしら」私は心の中で大いに苦痛を感じ、主を呼び求めて自分を導いてくださるようお願いし続けることしかできませんでした。

    聖書, 聖書の新たな認識

    2017年9月のある日、私はフェイスブックで王兄弟と出会い、その後聖書の認識についてしばしば話し合いました。王兄弟は聖書に関して特に純粋な認識を持っており、彼の交わりは光に満ちていました。それまで私を悩ませていた多くの問題を解決してくれた上、彼の言葉に耳を傾けていると自分の心が光で一杯になるように感じられました。私はさらに理解することができるよう、オンラインの聖書学習クラスに参加してほしいと率先して彼にお願いしました。オンラインのやりとりを一ヵ月あまり続けたころ、自分の霊が大いに供給を受けたように感じられ、聖書の預言と主の御心についてかなり理解するようになりました。また清水の泉のごとく私の心に流れ込み、私の干上がった霊を潤すような言葉もいくつか送られてきました。私はその集会を心から待ち望むようになりました。

    聖書に記されていること以外に神様の発した新たな御言葉はあるのか

    ある日、兄弟姉妹が私のためにビデオを再生してくれましたが、その途中で出演者の全員が一冊の本を手にしているのに気づきました。しかしその本が聖書ではなかったので、私は驚かずにはいられませんでした。私は考えました。「聖書を手にしていないなんてどういうこと。主を信じるクリスチャンは聖書を読まなければならないのに。だって、聖書に記されている以外に神様の御言葉はないのだから。聖書を読んでいないのは、彼らが道に迷ってしまったということなのかしら」私の心は即座に疑いで一杯になりましたが、兄弟姉妹に恥ずかしい思いをさせないように異議を唱えることはしませんでした。オンラインでの集会が終わったあと、私は王兄弟にメッセージを送って自分の疑いを打ち明けるとともに、この聖書学習クラスに参加するのはもうやめようと決心しました。

    王兄弟からの返信にはこう記されていました。「姉妹、あの本は神の国の時代の聖書―『言葉は肉において現れる』です。そこには終わりの日のキリスト、つまり全能神が表現なさる新しい御言葉しか記されておらず、それは『御霊が諸教会に言うこと』とヨハネの黙示録で預言されているものです。全能神は終わりの日に姿をお見せになって働きを行なわれますが、すでに何百万もの御言葉を表現なさっていて、聖書の中にある数多くの真理や奥義だけでなく、神様の六千年にわたる経営(救いの)計画の奥義をもあらわされてきました。それらの真理は、長年にわたって主を信じてきたにもかかわらず、私たちがいまだに理解していないものです」王兄弟のメッセージを読んだ私はとても混乱してこう考えました。「私は三十五年間も主を信じてきたけれど、聖書に書かれている以外に神様の御言葉があるなんて聞いたことがない。それなのに、この『言葉は肉において現れる』という本には神様の発する新しい御言葉しか記されていないと言っている。そんなことがどうしてあり得るの」

    ちょうどそのとき、王兄弟がもう一つのメッセージを送信しました。「姉妹、私たちは三十年以上も主の再来を心待ちにしてきましたが、いま主イエスは全能神として本当にお戻りになりました。現在、主は全世界に御言葉を語られています。ならば私たちもそれを探し求めて考察すべきではないでしょうか。主イエスはこうおっしゃいました。『夜中に、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がした』(マタイによる福音書25:6)主の再来の知らせを聞いた私たちが賢い乙女になって積極的に主を探し求めることを、主は望んでおられます。そうすることでのみ主をお迎えすることができるからです。主の再来の知らせを聞きながら、自分の観念に合致しないからといってそれを調べるのを拒むなら、私たちは主の到来をお迎えする機会を逃すことになるでしょう。そうすれば主の救いを失うことにはならないでしょうか」

    兄弟の言葉は私を目覚めさせました。私はこう考えました。「そうだわ。私は何年間も主を信じてきたけれど、その間ずっと主がお戻りになるのを待っていたんじゃなかったの。いま、主がお戻りになって再び御言葉をお語りになっていると誰かが証しをしている。それならきっと、まずそれに耳を傾けて考察すべきだわ。そうすることでのみ、主をお迎えすることができるのよ」

    その後、王兄弟が別のメッセージを送信しました。「『ヨハネによる福音書』第16章12-13節で主イエスはこうおっしゃいました。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう』ヨハネの黙示録でも数カ所でこう預言されています。『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』(ヨハネの黙示録第2章、第3章)このことから、主はお戻りになるとき新たな御言葉をお語りになり、私たちがそれまで決して理解することのなかったすべての真理と奥義をお話しになることがわかります。これらの真理は聖書に記されていません。主が終わりの日にお戻りになったときに成し遂げられ、実現されることになっているのです。聖書に記されている以外に神様の御言葉や働きはあり得ないと考えるなら、どうしてこれらの預言が実現されるでしょうか。終わりの日に神様が発する御言葉が聖書に自動的にあらわれるなど、どうしてあり得るでしょうか。したがって、主をお迎えしたければ自分の観念を捨てて、何よりもまず終わりの日にお戻りになった神様の発する御言葉を読み、注意を払って神様の御言葉を聞かなければなりません。相変わらず聖書にしがみついて聖霊が諸教会におっしゃることを聞かないなら、かなりの確率で主をお迎えする機会を逃してしまうでしょう」

    このメッセージを読んだあと、私は突然理解し始めたように感じてこう考えました。「ああ、私はこれらの聖句を以前に何度も読んできたけれど、神様の御心がわからなかったのはどういうことかしら。主は『耳のある者は……聞くがよい』とおっしゃることで、私たちに要求をされているんじゃないかしら。お戻りになった主は私たちに御言葉をお話しになり、私たちは神様のお声を聞くことに集中して初めて、主をお迎えしてその足跡にしたがうことができるのよ」このように考えた私は王兄弟に急いで返信を送り、全能神の御言葉をもっと送ってくれるようにお願いしました。

    すると王兄弟は全能神が表現なされた御言葉をいくつも送ってくれましたが、その中には『あなたは人類全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである』や『神を知らない者はすべて神に反対する人々である』の各章もありました。私は神様の御言葉を読んで神様の働きについていくらか認識を持つとともに、人間の堕落の根源と、サタンがいかにして人間を堕落させるか、そして神様が人間を救うべくいかにして働きをなさるかを知るようになりました。また私たちが自分の観念や想像に頼ることで神様の働きを常に定めていることや、それが神様に抵抗する振る舞いであることも認識するようになりました。神様の御言葉を読めば読むほど心が明るくなり、全能神の御言葉には権威と力があって本当に神様のお声のようだと感じました。私はそれを考察し続ける決心をしました。

    一つの集会が聖書の新たな認識を私にもたらした

    私の困惑は一掃され、聖書について新たな認識に達した

    次の集会のとき、私は兄弟姉妹に自分の困惑を話しました。「林姉妹、王兄弟、あなたたちは、神様は新たな働きをなさり、新たな御言葉を表現なさっていると言っています。でも私は、神様の働きと御言葉はすべて聖書の中に見つけることができ、クリスチャンは神様への信仰において聖書から離れることはできない、そうすることは真の道から外れることだからだと、牧師が言うのを小さいころからずっと聞いてきました。この問題についてあなたたちの意見を知りたいと思います。これについて私と交わってくださいませんか」すると林姉妹が次のように言って交わりをしてくれました。「姉妹、神様の働きと御言葉はすべて聖書の中にあり、聖書から離れることは真の道から外れることだという信仰において、私たちは宗教界の牧師や長老とともに歩んでいます。それは宗教界全体が抱いている信仰ですが、その見方は事実と一致しているでしょうか。神様の御言葉と一致しているでしょうか。主イエスがそのようなことをおっしゃったことはなく、聖霊がそれらの言葉をおっしゃったこともありません。ではその見方はいったい何を基にしているのでしょう。私たち自身の観念と想像から生じたのではないですか。私たち全員が知っているとおり、聖書は神様の働きにおける以前の二段階の記録に過ぎず、神様がいったん働きを終わらせてから神様に従った人たちの記憶を基にした、神様の御言葉と働きの記録です。それらの人たちがあらゆることを記録したのは絶対に間違いないと、あえて言うことができるでしょうか。さらに、聖書が編集されているあいだ、編者は互いに論争し、内容の遺漏もありました。そのせいで預言者によって伝えられた神様の御言葉の一部が旧約聖書に記されず、むしろ第二正典に収載されることになったのです。そのことは、漏れてしまったそれらの預言者による預言が神様の御言葉ではなかったことを意味するでしょうか。『ヨハネによる福音書』第21章25節にはっきりとこう記されています。「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う」主イエスは三年半にわたって働きをなされ、弟子を率いて行く先々で教えを宣べ伝えられ、働きをなされました。では、その間に主はどれほど多くの御言葉を語られたでしょうか。どれほど多くの働きをなさったでしょうか。したがって、聖書に記されなかった主イエスの働きや御言葉は数多くあると言えます。聖書に記されている主イエスの御言葉は氷山の一角に過ぎません。ならば、神様の御言葉と働きはすべて聖書に記されていると、宗教界の牧師や長老はどうして言えるのでしょう。そのように言うことは事実と真っ向から反していませんか。牧師や長老の言うことにしたがうなら、預言者によって伝えられながら聖書に記されていない神様の御言葉や、聖書に記されなかった主イエスの御言葉と働きを否定していることになりませんか。さらに、主イエスが働きをなさるべくおいでになった当時、新約聖書はまだ存在しておらず、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書4:17)というイエスによって表現された道も旧約聖書に記されませんでした。ゆえに、主イエスによる御言葉と働きは当時聖書から超えていたと言えます。よって、聖書から超えることは真の道から外れることだと、さも断罪するように言うことで、宗教界は主イエスの御言葉と働きをも断罪しているのではないでしょうか」

    そう言ったあと、林姉妹は神様の御言葉の一節を送信しました。「聖書に記録されていることは限られており、神の働きすべてを表すことはできない。四福音書をすべて合わせても百章以下であり、その中に書かれている出来事は限られている。たとえば、イエスがイチジクの木を呪ったこと、ペテロが主を三回否定したこと、イエスが磔刑と復活の後、弟子たちに現れたこと、断食についての教え、祈りについての教え、離婚についての教え、イエスの誕生と系図、イエスの弟子たちの任命などである。……これらは数少ない書物でしかないにもかかわらず、人々はそれらを宝として大切にし、それらに照らし合わせて今日の働きを確かめさえする。彼らはイエスがその生涯に行なった働きは聖書に書かれていることだけに限られているとさえ信じている。まるで神がそれくらいのことしかできず、それ以上はできないかのようである。これは馬鹿げてはいないだろうか。確かめさえする。彼らはイエスがその生涯に行なった働きは聖書に書かれていることだけに限られているとさえ信じている。まるで神がそれくらいのことしかできず、それ以上はできないかのようである。これは馬鹿げてはいないだろうか。(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奧義(1)」)

    そして林姉妹は交わりを続けました。「聖書に記されている内容はとても限られています。旧約聖書はヤーウェ神の働きの一部を記しているに過ぎず、新約聖書は主イエスの働きの一部を記しているに過ぎません。終わりの日における神様の働きについて言えば、聖書にはそれに関するいくつかの預言があるだけで、詳細な記録はそこにありません。神様はそれぞれの時代においてその時代の働きをなさるだけであり、次なる段階の働きを前もってなさることはありません。例えば律法の時代、ヤーウェ神は戒めと律法を守るよう人間に教えられ、神様を崇拝するよう命じられただけでした。恵みの時代になさろうとしている働きを前もって当時の人にお告げになることはなかったのです。同様に、主イエスは終わりの日である現在すでに戻られ、恵みの時代の贖いの働きを土台として御言葉を表現なさり、神様の家に始まる裁きの働きを行なわれ、私たちの堕落した性質を裁いてお清めになり、私たちが罪の束縛を完全に捨て去って神様によって清められ救われるようになさっています。この働きの詳細が、聖書の中に前もって記されていたはずはありません。したがって、「神様の御言葉と働きはすべて聖書の中にあり、聖書から離れることは真の道から外れることである」という宗教界の牧師や長老による発言は、神様の働きの事実と完全に真っ向から反しています。それは人間の観念と想像から生じたものであり、人々を欺くことが目的の嘘であり、馬鹿げた理論なのです」

    全能神の御言葉と姉妹の交わりは私を完全に納得させ、それを論破するのは不可能でした。私はこう考えざるを得ませんでした。「本当にそうだわ。神様は万物を包含なさり、神様の知恵は豊かで豊富にある。それなら、神様のすべての御言葉と働きがどうして聖書に制限されるでしょう。神様は聖書を超えて働きをなさる権利があります。つまり私たちの以前の認識は確かに間違いだったのよ」

    すると王兄弟が聖書の一節を送信しました。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」(ヨハネによる福音書5:39-40)そしてこう言いました。「聖書は歴史の記録であり、神様の働きにおける以前の二段階の証しに過ぎません。聖書に永遠のいのちはなく、いのちの源でもありません。聖書を信じることで真理やいのちが得られることは決してなく、聖霊の働きも獲得できず、まして真の救いを獲得するなど不可能です。神様だけが真理であり、道であり、いのちであって、神様だけが私たちのいのちの源なのです。神様への信仰において真理といのちを得たいと望むなら、神様の御前に出て、神様の現在の働きと御言葉を受け入れてそれに服従し、子羊の足跡につき従わなければなりません。そのとき初めて神様の救いを獲得できるからです。

    王兄弟の交わりを聞いたあと、私は突然光を目にしてこう考えました。「以前にこの一節を読んだとき、聖書には神様の証しとしての働きがあると理解しただけで、神様への信仰において聖書から離れてはならないと信じていたけれど、神様は真理であり、道であり、いのちであるという事実を見落としていた。いまようやく、聖書は単に神様の過去の働きの証しであって、神様をあらわすことはできず、中にいのちを含んでいないと理解したわ。真理といのちを得たいと思うなら、神様の足跡に丹念にしたがう必要がある。そのとき初めて神様の救いを獲得できるから。ああ、神様の新たな働きに対する自分の態度を振り返ると、探し求める心がこれっぽっちもなく、自分の観念にしがみついて神様の働きを拒むなんて、どれほど盲目で無知だったかいまようやくわかったわ。あくまでこのまま聖書にしがみつくなら、神様の救いを拒んでいることにならないかしら。私は終わりの日における全能神の働きを真剣に考察しなければならないのよ」

    神様の働きを理解して主の再来を喜んでお迎えする

    神様の働きを理解して主の再来を喜んでお迎えする

    その後、林姉妹が『聖書から出てくる』というタイトルの福音動画を見せてくれました。それは神様の御言葉の二節が主題であり、動画に登場する姉妹の交わりに私は引き込まれました。神様の御言葉はこうおっしゃっています。「より高い道があるのに、なぜ低い、旧式な道を学ぶのか。新たな言葉、新たな働きがあるのに、なぜ古い歴史的記録の中で生きるのか。新たな言葉はあなたに必要なものを与えることができる。つまり、これが新しい働きであることの証明である。古い記録は十分な満足を与えたり現在の必要を満たすことができない。このことは、それが歴史であり、今現在の働きではないことを示している。最も高い道は最も新しい働きだ。そして、新しい働きは、どんなに過去の道が高くとも、それは人々の思考の歴史であり、参考としての価値がどれほどであってもそれは古い道なのだ。たとえそれが「聖なる書」に記されていても、古い道は歴史だ。たとえ「聖なる書」に記録されていないことでも、新たな道が今現在のものなのだ。この道はあなたを救う。そして、この道はあなたを変える。これは聖霊の働きだからだ。だ。この道はあなたを救う。そして、この道はあなたを変える。これは聖霊の働きだからだ。だ。この道はあなたを救う。そして、この道はあなたを変える。これは聖霊の働きだからだ。」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」より)「過去の物事を今日に持ち込めば、それは歴史となり、どんなにそれが事実で真実であろうと、やはり歴史である。そして、歴史は現在について取り上げることはできない。神は歴史を振り返らないからである。だから、聖書だけを理解して、神が今日しようとしている働きを何も理解しないのなら、また、神を信じていても聖霊の働きを求めないのなら、あなたは神を求めるということがどういうことなのか、わかっていない。イスラエルの歴史を学ぶために、神の天地創造の歴史を研究するために聖書を読むのなら、あなたは神を信じていない。しかし、今日、あなたは神を信じていのちを求めているのだから、神の認識を求めているのだから、また、死んだ文字や教義を求めていないのだから、あるいは、歴史を理解しようとしているのではないのだから、あなたは今日の神の心を求めなければいけない。そして、聖霊の働きの方向を尋ね求めなければいけない。もしもあなたが考古学者なら、聖書を読んでもよいであろう。しかし、そうではない。あなたは神を信じる者の一人なのだから、神の現在の心を探し求めるのが一番だ。」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(4)」より)

    動画の姉妹はこう語りました。「終わりの日における神様の働きは聖書で預言されているだけで、その実際の記録はありませんでしたが、それは人類が実際に必要としているものを基にしており、聖書という基礎を土台としてより深くなり、より高められる働きです。それはちょうど、おいでになった主イエスが旧約聖書にしたがって働きをなさったわけではなく、人類が求めるものと神様ご自身の計画にしたがって働きをなさったのと同じです。主は律法の働きを基に贖いの働きの一段階を終わらせましたが、言い換えれば旧約聖書を基に新たなより高次の働きの段階を終わらせたのです。働きのその段階において、主は旧約の律法を無効にされたのではなく、それを完全になさいました。そして同じように、神様は今日の終わりの日において、人類が必要とするものと神様の経営(救いの)計画を基にした主イエスの贖いの働きを土台として、別の段階のより新たな、より高次の働きをなさっていて、人類を清めて救うことができる数多くの御言葉をお発しになっています。神様はまた神様の経営計画の奥義をすべてあらわされています。これらは律法の時代や恵みの時代に神様が決しておっしゃらなかったことです。それらはまた、終わりの日に神様がお開きになっている巻物、お解きになっている七つの封印でもあります。これは黙示録に記された次の預言を実現しています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録2:17)また黙示録第5章1節から5節にもこう記されています。「わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。また、ひとりの強い御使が、大声で、『その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか』と呼ばわっているのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。すると、長老のひとりがわたしに言った、『泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる』」これらの預言は主イエスが働きを終わらせるまで存在しませんでした。これらの預言が神様の成し遂げようとされていること、終わりの日に神様がなさろうとしている救いの働きに違いないことは言うまでもありません。現在、神様は肉となられ、御言葉を発するべくおいでになりました。神様は裁きと清めの働きの一段階をすでになされ、人々を救われるようにする数多くの御言葉をお発しになってきました。それらの御言葉は聖書に記されておらず、聖書の外にある御言葉です。これらの豊富ないのちの御言葉は、終わりの日に神様が人類に授けられたいのちの道であり、人類の救いの唯一の道です。私たちがそれを受け入れるのを拒むなら、神様のいのちの生きた水によって真に潤されることはできず、神様から真理もいのちも得られません」

    姉妹の交わりを通じ、神様の働きがずっと前進し続けていることを私はようやく認識するようになりました。律法の時代、ヤーウェ神は人類の生活を導き、いかに神様を崇拝するかや罪とは何かを人々に知らしめるべく、律法と戒めを公布なさいました。恵みの時代、主イエスは十字架につけられることによって人類を律法の束縛から贖われました。そして人は主イエスの救いを受け入れる限り、主の豊富な恵みと祝福を享受することができました。しかし、私たちがいまなお何度も罪を犯しては告白するという状況の中で生き、罪の束縛と足かせを振り払えないでいるのは否定できません。現在、再来なされた主イエス、すなわち終わりの日のキリストである全能神は裁きの働きをなさっており、私たちの罪深い本性が解決されるよう、また私たちが罪深い本性を自分から完全に取り除き、最後に神様の約束を獲得して美しい終着点へと入るのにふさわしくなれるよう、ご自身の御言葉を表現なさいます。終わりの日における全能神の働きは聖書を否定するものではありません。むしろ神様は、律法の時代と恵みの時代の働きを土台としてより新たな、より高次の段階の働きをなさるのであって、それがまさに私たち堕落した人類が必要としているものです。神の国の時代の聖書―『言葉は肉において現れる』は、終わりの日に神様から私たちに与えられたいのちの道であり、終わりの日の神様の働きを受け入れることでのみ、いのちの生きた水の供給を得られるのです。私はいまようやく、私たちが神様からいのちの供給を得られない理由と、暗闇に陥って聖霊の働きを失ってしまった理由を理解しています。それは私たちが聖書にしがみつき、神様の働きと御言葉はすべて聖書の中に見つかると考えているから、また終わりの日の神様の働きを受け入れるのを拒んでいるからなのです。

    全能神教会と接触するようになってから二ヶ月しか経っていませんが、全能神の御言葉が真理であること、私の混乱と疑問を解決できること、そして私の霊を供給してくださることを知りました。全能神は再来なされた主イエスであると私は確信するようになり、終わりの日の神様の働きを喜んで受け入れました。聖書にしがみついていたせいで神様の働きを拒絶していたことを振り返ると、深い後悔を感じます。私はそれほど傲慢で愚かだったのです。しかし神様が私を憐れんでくださり、兄弟姉妹が私にメッセージを送り、私と会って何度も何度も交わってくれたことを通じて、私が聖書の内幕とその実体を理解できるように、また神様が人類を救うべく一歩一歩働いておられることを理解できるようにしてくださり、私はついに自分の観念を捨てて終わりの日の神様の働きを受け入れ、神様の足跡にしたがい始めました。私を愛し、救ってくださったことに対して神様に感謝いたします。

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