3つの原則を理解すれば、多忙にしながらも主の前で静まることができるようになります

    2018年 10月 01日

    寄稿家:ヂィシン(中国)

    ケム姉妹へ:

    こんにちは!私は毎日自分の仕事をし、教会で仕え、そして自分の家族と子供たちの面倒を見ながら忙しくしています。こうして、私は毎日、気が付いたらこういったことで頭がいっぱいになっています。私は沢山のことに対応してきましたが、心の中ではいつも空しい思いをしています。私は祈りを捧げている最中、主に伝えたいことが無いだけでなく、私の霊的に乾いている感じ、不毛な状態になってしまいます。それに、私は聖書を読むときでも、心を鎮めることもできなかった。なぜなら、私は常にこういった回りの出来事に気をそらされているからです。私はとても動揺した気分になり、この問題をどのように解決すればよいのか全く分かりません。

    ヂュウチウ

    3つの原則,主の前で静まる,忙しい

    こんにちは、ヂュウチウ姉妹:

    あなたがされた質問は多くの兄弟姉妹たちが抱えているものです。私たちは回りのことで忙しくしていると、どうして主と普通の関係を持つことができないのか?主な理由は、私たちは物事の対応でいつも忙しくしていると、神の前で心を静めることができないからです。全てにおいて神の前で自らを静めるということを実践するための原則を理解できれば、私たちはどのような環境に直面しても、心の中で平安と喜びを感じながら神の御前で暮らすことができるようになります。そうすれば、私たちはそれほど悩んだり、落胆することはないでしょう。

    今日は、「神の前で静まるとはどういうことか?そして、それを実践する道とは」について一緒に調査しましょう。

    では、「神の前で静まる」とはどういう意味か?

    神はこう仰ります:「神の前で静まることは、料理しないことや働かないこと、生活を無視することを意味するのでは無く、日常の全ての状況において、神の前で自分の心を静めることができること、自分の心の中に神の居場所を確保出来ることを意味する。祈る時は、神の前できちんと跪いて祈りなさい。働く時や食事を用意する時は、自分の心を神の前で静め、神の言葉を熟考するか、賛美歌を歌いなさい。あなたには、自分が置かれた環境に関わらず、実践する方法がある。あらゆる手を尽くして神に近付き、できるかぎり神の前で心を静めなさい。状況が許すならば、一心に祈りなさい。状況が許さなければ、自分の手で仕事しながら、心の中で神に近付きなさい。神の言葉を食し飲むことができる時は、そうしなさい。祈ることが出来る時は、祈りなさい。神について瞑想することが出来る時は、神について瞑想しなさい。自分が置かれた環境に基づいて、あらゆる手を尽くして真摯な取り組みのために自らを訓練しなさい。」御言葉から、神の前で静まるということは、私たちの心を常に神の前に置き、心から神に祈りを捧げ、神と会話をし、通常は神に近づき、そして神から離れないでいることを意味していることが分かります。言い換えると、私たちが何をして忙しくしていようとも、私たちの心はそれら回りの出来事で埋め尽くされるべきではないのです。むしろ、私たちは心の中で主に近づき、御言葉と神の愛を熟考することを実践するべきなのです。そうすれば、私たちは神の前で暮らすことができるようになります。どちらにしろ、これは心の中で神のことを考える以外は何もしないという意味ではありません。大切なことは、私生活において、私たちが神の前で自分の心を静められるということです。この訓練および実践をすることができれば、私たちは常に聖霊に動かされ、私生活における出来事や困難に対応するために実践すべき道を持つことができるでしょう。そうすれば、私たちがどれだけ多忙であろうとも、心の中には平安と喜びがあり、私たちが空しくなることもなくなるでしょう。

    そうしたら、どのようにして神の前で心を静めたらいいですか?

    1.その場ですぐ、可能な限り、主に祈りを捧げて心を開きましょう

    賛美してに感動したら、神に感謝の意と称賛を捧げましょう:「神様!今日、私は賛美して心の中で非常に感動しました。私はこれが聖霊の働きの結果であると分かっています、そしてこれはあなたの私たち人類に対する愛情を感じさせてくれます。神様!私はあなたにもっと近づいて、あなたの前で暮らしていきたいと思います。」このように祈りを捧げれば、神の前で心を静めるのがもっと簡単になります。時と場所に関係なく、可能な状況であれば、その時にすぐ、神の前で心を静めることを実践できるようになるのです。例えば、台所で手を使って何かをしている最中、私たちは賛美して、神に祈りを捧げ、または御言葉を熟考することで自分たちの心を静めることを実践できます。さらに、公共の場でバスを待っている時、バスの中にいる時、または自分たちが本分を尽くす場にいる時なども、私たちは神の前で心を静めることを実践することができます。私たちは、規則や規定、状況から抑制を受けることなく、祈りを捧げ、神に近づき、神の御言葉を理解するのです。何時でも何処でもできるのです。例えば:朝にデボーションを行う最中、静かな環境であれば、私たちは跪き、神に祈りを捧げ、そして御言葉を読むべきです。公共の場で、路上で、または職場で、私たちは神に心を開き、神の御言葉をじっくりと考えることができます。実際には、神に近づき祈りを捧げることは環境のような要因の影響を受けずにできるのです。神に近づく意思を持ってさえいれば、私たちは何処にいても神と普通の関係を持つことができます。このようにして、私たちは常に神の前で暮らすことができるのです。これもまた、神の前で心を静めることを実践する道における側面の1つであります。

    2.私たちは常に御言葉を読み、それを熟考し、私たちの生きる基盤とすべきです

    私たちは聖書を読む際、頻繁にその表面的な形だけの行為をとるだけで満足し、御言葉を熟考するということには全く注意を払っていないことがあります。実生活において御言葉を心の中に抱いていなければ、私たちは主の前で自らを静めることが困難になります。実際のところ、私たちは毎日聖書を読む時には純粋な心で御言葉を熟考し、祈りを捧げ、そして可能な限り御言葉の中を探求するべきなのです。私たちがこのように振る舞っていれば、神は私たちが真理を切望する心を持っていることを知ってくださり、神の御心を理解できるよう私たちをお啓きくださり、指導くださります。これ故に、私たちは毎日のように新しい何かを得て、知らぬうちに神の前で自分の心を静められるようになるのです。

    例えば、「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。」(マルコによる福音書10:15), という主イエス様の御言葉を読むとき、私たちは、「主イエス様はどうして子供のようにならない者は誰も天国に入ることはない」と仰ったのかを理解するべきです。主は何を意図されているのでしょう?幼い子供の具体的な明示とはどういったものなのでしょう?そして、私たちはどのようにして幼い子供らしさを貫くべきなのでしょう?私たちが神に祈りを捧げる責任を背負い、幾度に渡って御言葉を理解しようと試みる時、神はこの御言葉の意味を理解できるよう私たちを御啓きくださります。幼い子供とはどういうことかと言うと、彼らは純粋で、誠実で、正直で、何かを偽ったり、隠したりせずに、言いたいことを何でも口にします。彼らは喋るとき、嘘をつかなければ、騙したりもしません。彼れらの言葉から、彼らの心の奥には何の陰険さや狡猾さも無いことが分かります。これ故に、私たちは彼らと仲良くしていると、何の心配もすることなく、安心することができるのです。幼い子供のようになることができず、代わりに狡猾さで満ちた心の中をもって、神に対する奉仕において祝福を得て、自分たちの野心と欲望を全うし、それらを満たす目的で神と取引を行い、自分たちの心がこういった不純さで満ちているとしたら、私たちは創造物としての本分を尽くしてはおらず、むしろ神を利用していることになるのです。このような働きと奉仕をしていて神の称賛を得られるはずがないのです。これについて熟考すれば、神はどうして私たちが幼い子供のようになることを御求めになるのかが分かります。神は正直な人々がお好きです。なぜなら、彼らは神と心を1つにし、反抗や抵抗もせず、神と一致しているからです。そのような人々のみが神の御国に入ることができます。なぜなら、神の本質は聖なるものであり、神は不正直な、かつ狡猾な性質をお持ちではないからです。サタンの堕落した性質を持つ者が神の御国に入ることは許されておらず、それは神の本質によって定められています。従って、神は私たち全員が真理を追い求めること、こういったサタンの堕落した性質を捨てること、そして神の前で誠実で生き生きとした幼い子供のように生きることを望んでおられます。こうしてのみ、私たちは神の祝福を授かることができます。私たちはこのように熟考すればするほど、増々御言葉を理解できるようになり、実生活において御言葉を実践する方法を増々知るようになるのです。そして、神と私たちとの関係は増々親密になります。これもまた、神の前で心を静めることから得られる結果なのです。

    3.常に神の愛について黙考し、神が私たちのためになさった救いの働き、ならびに神の私たちに対する善良な御旨について熟考しましょう

    通常、私たちは常に主の愛情について考え、主が私たちのためになさった働きを思い起こし、主の私たちに対する救いと善良な御旨について熟考するべきです。こうすることで、私たちは常に聖霊によって動かされ、心の中で主に近づいて主を満足させたくなるでしょう。例えば、私たちは夜にベッドで横になる間、心の中でその日、または過去に体験した神の御加護や愛情について理解するべきです。例えば、私たちが主に仕える中で遭遇した困難と苦難を切り抜けるために、主はどのようにして私たちを導きくださったかを理解するべきです。これを理解しようとすればするほど、増々神の御旨を理解することができます。さらに、私たちは、神はこの困難を通じて私たちを完全にして、私たちが真理を得られるようにすることを望んでおられると気が付くのです。このような体験をすればするほど、私たちの神への信仰は増々断固たるものになるでしょう。さらには、神が私たちのためになさる救いの働きに関する知識も増えていくでしょう。また、私たちは神が私たちを救おうとされる善良な御旨をさらに体験することになるでしょう。時に、私たちは、神が私たち堕落した人々を救うために謙虚に隠れながら私たち人間の中にお越しになり、私たちの罪を贖ってくださり、そして十字架に釘付けにされた事実について考えることがあるかもしれません。神が私たちのためにしてくださったことを振り返れば、私たちは常に神の愛に感動するでしょう。この時、私たちは心の中で尽きることのない力を手にし、肉に背き、困難の中を生きるのを拒み、そして神を満足させるために出来ること全てをする意思を持つようになるでしょう。私たちはまた、主の愛について熟考する間、神は私たちのすぐ側におられ、私たちに付き添ってくださっていることを実感するでしょう。私たちはこのように熟考し、実践すればするほど、増々神の前で心を静められるようになるでしょう。また、私たちは神についてもっと知り、神を恐れる心を抱くようにもなるでしょう。

    私はこの交流があなたのお役に立ち、そしてあなたが神と普通の関係を維持できることを願っています。私は、上述した内容に従って神の前で心を静めることを実践している限り、私たちは心の中で平安と喜びを感じながら、神の指導と祝福を受けることができると信じています。あなたに神の加護がありますように!

    ケムより

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