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霊的成長-神への信仰の間違った認識を正して、神の臨在を得る

私は長年に渡って主を信仰しています。しかし、「あなたは何のために神を信仰しているのですか?」、と誰かに聞かれた時、私は一瞬、正確にはどう答えていいのか分かりませんした。この質問について、私は主を信仰する兄弟姉妹に問いかけました。「神を信じることは善良人になることだし、真の人間として生きるということだから」、と言う人がいれば、「神の御加護と肉の平安を受けて、災害を避けるため」、と言う人もいるし、「神への信仰は救われるためだけのものです。それに、今の時代とこの先の時代で永遠のいのちがあれば100倍の恵みを授かることができるからです。神の祝福に終わりはないんですよ」、と言う人もいるし、「病気を治したいから」、と言う人もいるし、「一時的な安らぎになるから」、と言う人もいるし、「良い終着点と永遠のいのちを手にするためです」、と言う人もいました。一言で言うと、私たちは各々が神への信仰に対する独自の観点を持っているのです。それでは、私たちの持つこのような観点は主の御心に沿っているのでしょうか?私たちの追求における観点は正しいのでしょうか?

この疑問を念頭に置きながら、私は聖句を調査しました。私は主イエス様のこの御言葉を目にしました、「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。」(マタイによる福音書6:25)。 「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイによる福音書 6:33)。これらの御言葉より、私は神を信仰するにあたり、まずは神の御国と義を探求する必要があることを学びました。私たちは食べ物や洋服、そして快楽といったものを肉のために追い求めるべきではありません、なぜならこれは未信者たちが追い求めるものだからです。私たちは主の信者として、真理といのちを得て、罪を一掃して神の救いを受ける、そして神に従い、神を崇拝する真のいのちを貫く道を追い求めるべきです。私はと言うと、やはり神を信仰することにおける観点はほとんどの人々を同じで、自らの肉のことだけを考慮していました。神への信仰は、私たちの魂が救われ、私たちの肉が平安を持つためのものなのです。私たちは病気の時、神に治してくださるように頼みます。弱くなっている時は助けてくださるように頼みます。何かを欠いている時は、お備えくださるように頼みます。辛いことがあれば、慰めてくださるように頼みます。さらに、私たちは、死んだ後には天国に入り、地獄の苦しみを免れることを期待しています。私たちは神から御恵みと祝福を授かるためだけに神を信仰しているのです。

ある日、私はある書籍の中で神のこの御言葉を目にしました、「神を信じている人はたくさんいるが、神への信仰とは何を意味するか、神の心に従うためには何をしなければならないかを理解している人はほとんどいない。人々は『神』という言葉や『神の働き』のような語句はよく知っているが、神を知らないし、ましてや神の働きなど知らないからである。それなら、神を知らないすべての人々がでたらめな信仰に取りつかれているのは無理もない。人々は神への信仰を真剣には受け止めない。なぜなら神を信じることは彼らにとってあまりにもなじみのないものであり、あまりにも不慣れなことだからである。これでは、彼らが神の求めに応えることなどできない。言い換えれば、人々が神を知らなければ、神の働きを知らなければ、神に使われるには適さないし、ましてや神の望みに応じることなどできない。『神への信仰』とは神の存在を信じることを意味し、これは神に対する信仰の最も単純な考えである。さらに、神の存在を信じることは、真に神を信じることと同じではない。むしろそれは強い宗教的含みを持つ単純な信仰である。神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。本当の信仰を持てば、堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知るようになるだろう。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。」(「序文」より) これらの御言葉は突然私を啓発してくださりました。これで神への信仰の的確な定義がはっきりしたのです。私たちが今まで固執してきた神への信仰に対する観点をこの書籍に書かれたこの御言葉とを照らし合わせてみると、私たちは頭が混乱したまま神を信仰していたことが分かりました。これには聖書に書かれたヨブについて思い出させられました。彼はその人生において、神は全てにおける法の全能な支配者であるという事実を理解するために努力を費やし、神を恐れ悪を避ける道に従い、神から物質的な祝福を豊富に授かりました。後に、彼に試練が降りかかりました。しかし彼は所有物と子供たちを失ったにもかかわらず、神への信仰を捨てませんでした。代わりに、彼はこの言葉を口にしたのです、「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記 1:21). 彼は断固たる姿勢で神の証言をし、神に認められ、神から二重の祝福を授かりました。その一方で、彼の妻は自分に災難が降りかかってきたことを理由に神を拒否したのです。ヨブは彼女を愚かな女だと言いました。そこには、神への2種類の異なる信仰があったことが分かります。

別の日に、私はある書籍の中で神の御言葉の次の節を目にしました、「真に信仰するというのは、救われるために神を信じるということでもなければ、ましてや善い人間になるためなどではありません。人間らしさをもつために信じるというようなものでもありません。実際、神に対する信仰とは、その存在を信じることだけで、それ以上のものは何もないなどという考え方を持つべきではありません。神は真理であり、道であり、いのちであると信じるだけで、それ以上は何もないというようなものではありません。そして単に神を認識しているというものでもなければ、神が万物の支配者だと信じるだけなどでも、そして神は全能だとか、神は世界のあらゆるものを創られたとか、神は唯一で至高の存在だということを信じるというだけでは尚更ないのです。そのような事実を単に信じるのが信仰ではないのです。そうではなく、あなたの存在の全て、あなたの心全てを神に捧げ、神に従うこと、つまり、神にしたがい、用いられるようにし、喜んで神に仕え、神のためにどんなことでもすることは、神の旨なのです。神により予め決められた、選ばれたものだけが信じるというものではないのです。実は人類全てが神を崇め、心を向け、従うべきなのです。人間は神に創られたのですから。これは本質の問題と関連してきます。あなたが神を信じることの目的ばかり話し、「我々は永遠のいのちを得るために神を信じているのではないのか。救われるために信じているのではないのか。」などと、あたかも神を信じることは二義的な問題であり、信じるのは何かを得るためだけでしかないかのように言うならば、神への信仰に関するあなたの見方は間違えています。」。これらの御言葉より、人類は全て無条件で神を信仰すべきだと思いました、なぜなら人間は神に創造されたからです。にもかかわらず、今私たちは誰もが神を信仰することに要件を付け加えているように思えます。神が祝福してくだされば、私たちは神を信仰する。そうでなければ、信仰しないというものです。私たちが神を信仰しているのは神と取引を行うことだけが目的で、それは天国に入り祝福を受けるための術となってしまっているのです。考えてみてください。神はこのような不純な心と取引で満ちた私たちの信仰を好まれると言えるでしょうか?私たちは祝福されるために神を信仰するようになってしまったのです。もし将来、善の代わりに悪を与えられるとしたらどうしますか?私たちはそれでも神に従い、神を崇拝し、心の中で神に感謝するでしょうか?これは神への信仰に関する非常に重大な問題なのです。さらに、これには私たちが神に認めていただけるかどうかという重要なことも関わってきます。私はこれを熟考していると、神への信仰において最も大切なことは、正しい観点を持つことであると気が付きました。正しい道を歩むことで、神への信仰における好結果が生まれるのです。

私は書籍の中で神の御言葉のこの節も目にしました、「神を信じる者としてただ祝福を求めるのではなく、神を愛し、神を知ることを求めるべきである。神の導きや示しと自身の追求を通して、神の言葉を飲食し、神への真の認識において成長し、心からの真の神への愛を持つことができるようになる。すなわち、あなたの神への愛は本物で、誰もあなたの神への愛を壊したり、立ちはだかったりすることはできない。それならあなたは神への信仰の正しい軌道に乗っているということである。それはあなたが神に属していることを証明する。あなたの心は神によって所有され、他の誰にも所有されることはあり得ないからである。あなたの経験、あなたが支払った代価、そして神の働きのおかげで、あなたは神に対する自発的な愛を育むことができる。それからあなたはサタンの支配から解放され、神の言葉の光の中に生きる。あなたが暗闇の影響から自由になったときにのみ、あなたは神を得たと言うことができる。あなたが神を信じるにあたり、これを目標としなければならない。これはあなたがた一人一人に課せられた義務である。」(「あなたは神を信じているので真理のために生きるべきである」より)。

この御言葉を読んだ後、私は神を信仰するにあたって、正しい考えと目的をもって探求すべきであると理解しました。これによりペテロのことを思い出しました。主イエス様はどうして彼を好まれ、彼に天国の鍵をお与えになられたのでしょう?彼は長年に渡って主イエス様に従った間、肉的な快楽と祝福を求めるのではなく、主イエス様の知識を得ることを求めていたのです。彼は、主イエス様の働きはいかなる人でも真似たり、取り替えることができないことを知りました。彼はまた、主イエス様が風と海を叱りつけて静めたこと、一言発して死人を蘇らせたこと等も知りました。これより、彼は主の御言葉は権威と力で満ちていると感じたのです。さらに、彼は、主イエス様の日常生活からしても、主イエス様は普通の人間性を持っておられ、超自然的なことは何もなかったことを知りました。この結果、彼は主イエス様がキリストの顕現であることを知りました。主イエス様は自分の生死を顧みずに天の御父の御心を実行するほど、心から神を愛し満足させていたことを彼は知ったのです。彼は人生を通じて主イエス様に従い、ついには神を今まで生きた誰よりも詳しく知るようになり、そして神を何よりも愛したのです。神を愛した彼は、神のために十字架に逆さにはり付けられ、神に認めて頂いたのです。従って、私たちは神を信仰することをペテロと同じように追い求める場合のみ、神から認めていただけるのです。

実に、私たちが神を信仰する目的は、神を知り、愛し、そして崇拝することを求めることであるべきなのです。私たちは神を信仰するために、ヨブとペテロのとった探求の仕方を手本にし、祝福を得ることや災害を免れること、または肉的な喜びや平安を大切にするのではなく、単に神を恐れ悪を避け、神を心から愛して知ることを求めるべきなのです。これこそが、神が好まれる正しい信仰の考え方なのです。全ての栄光、神にあれ!

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