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謙そんして真理を求める人は祝福される人である

謙そんして真理を求める人は祝福される人です

2002年、私の叔母は私に主イエス様の福音を話してくれました。私は、主イエス様が人類の罪を贖うために十字架に釘付けにされたことを知って深く心を打たれ、主の私たちへの愛はとても素晴らしいものだと感じました。従って、私と叔母は一緒に主に祈りを捧げ、人生を通して主に従い、そして主を頼りにしていく決意を伝えました。その後、私は頻繁に聖書を読み、祈りを捧げ、讃美歌を歌い、心から主と話し、私はまるで喧騒のない世界に入り込んだかのように心の中がとても穏やかになりました。

2008年、私は集会に参加するため日本の教会を訪れました。同時に、私は名古屋で牧師と説教師が教会を設立するのを手伝い、その教会の働き手にもなりました。当時、その牧師は教会全体を統轄し、皆は彼をとても尊敬していました。しかし、私は説教師をもっと尊敬していました。なぜなら、彼女は聖書にとても精通しており、主のためにいつも熱心に働き、霊的にも深みのある人だったからです。その一年後、私は仕事の都合で他の市に異動となりました。その後すぐ、私は、その牧師が本部の牧師ならびに説教師とも意見が食い違い、それが原因で教会は分裂したと聞きました。その理由は、牧師の悪事が暴露され、教会の資金を横領したことが報告されたため、本部の牧師が彼を教会から除名したというものでした。私は熱心に福音を説いていましたが、教会はついに彼らが権力と利益をめぐって争い合う場と化してしまったため、自分は彼らに道具として上手く利用されている気分になりました。これが理由で、私はしばらくの間とても悲しくなり、落胆しました。最終的に、私はこの悲惨な教会を去る決断をしたのです。

その後、私は説教師について大阪へ行き、新しい教会を建てました。その説教師はこの教会を他の説教師に託しました。しかし、この新しい説教師の説教は私たちを教化することも、私たちの生活における問題を解決することもできず、私たちは皆弱く、否定的になり、私たちの信仰はどんどん冷めて行きました。兄弟姉妹たちがその教会に来て集会に参加していたのは結婚相手になりうる人を自分の子供たちに紹介したり、仕事を探すためであり、中には人にたかる目的で来ている人すらいました。当時、私はこの教会が律法の時代末期の神殿と同じように、商売の場と化してしまったような気がしました。いのちの備えを受けられず、途方に暮れた私はこの教会を去ることを余儀なくされました。しかし、どのような問題に直面しても、私は依然と変わらず前の教会の説教師に直接相談していました。その後、私はその他多数の教会にも行きましたが、荒廃した状態はどこも同じでした。こういった状況全てを前に、私は内心とても悲しくなり、心の中で頻繁に主に向って声を上げて叫びました、「ああ、主よ!あなたは何処におられるのですか?」

2015年クリスマスの日、私は自分の子供と親子イベントに参加した際、主を信仰するケチウ姉妹と知り合いになりました。その後、私たちはいつもお互いに主を信仰してきた経験について語り合うようになりました。彼女の話しを聞いていると、私はそれがとても啓発的だと感じ、多くを学びました。彼女は私が困難や問題に遭遇する度に、辛抱強く私と交流して私が実際に抱える問題を解決してくれました。私は彼女と一緒に交流し、共有し合えることをとても嬉しく思いました。後に、私たちは教会の状況について話し合いました。彼女はこう言いました、「律法の時代末期に、元々は栄光で輝いていた神殿は盗人の巣と化しました。これは、主に、ユダヤ教の指導者たちがヤウェ神の律法に従わず、心の中で神を恐れなかったことが原因でした。彼らは人間の言い伝えに従い、神の戒律を排斥していたのです。彼らは神の道から完全に離れてしまったので、聖霊の働きを失いました。しかし、もう1つの原因は恵みの時代に、神が人類の罪を贖う働きをするために受肉されたことでした。神の働きが変わったのです。主イエス様の贖いの働きを受け入れた者はその全員が聖霊の働きを受けましたが、主イエス様の働きを排斥し、それに抵抗した者たちは神の働きから排除され、暗い荒廃状態に陥ってしまったのです。宗教界の牧師と長老たちに目を向けてみましょう。彼らは好き勝手をして、神の戒律に従っていません。彼らは主として聖書の内容を頻繁に解釈してはいますが、聖書に関する知識と神学理論に注目し、人々を聖書神学に没頭させ、彼らを神から離し、教会を宗教儀式の場と変えているだけなのです。さらに、彼らはそれぞれの本分を地位と収入を得るための術として扱っています。この牧師と長老たちが勝手なことをして、神の道に従うことを止めてしまっているがために、聖霊の働きは離れてしまい、信仰の場も見捨てられてしまったのです。しかし、また、それは主イエス様が肉に戻られ、終わりの日に神の家を起点にして裁きの働きに着手されたことにも起因していました。全能神は終わりの日の神の働きを受け入れる者全てを清めるために、人類を救うことの真理の全てを話され、聖霊の働きも終わりの日の神の働きに移行します。終わりの日の全能神の裁きの働きを受け入れる者は聖霊の働きを受け、いのちの生ける水の備えと注ぎを受けますが、終わりの日の神の働きを受け入れない者は暗い荒廃の中に残されてしまいます。これは聖書にあるこの預言の内容を裏付けているのです。「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった」と主は言われる」(アモス書47―8)

彼女の交流を聞いて、教会が荒廃していた理由は聖霊の働きが移行し、全能神が御言葉を話され、神の家を起点に裁きの働きをなされたことが理由であったと私は理解しました。その瞬間、私は主が再臨されたことにとても興奮しました。その後、彼女は神の人類を救う経営計画と神の三段階の働きにおける幕内と本質について交流してくれました。彼女はこうとも言いました、「神がなされる各段階の働きは全て、私たち堕落した人類の必要性に基づいており、それは前の働きを土台にして作られたより深く、より高いレベルの働きです。この3段階の働きで神の経営の働き全体が成り立っています。」私は聞けば聞くほど、彼女の言ったことに増々賛成しました。集会が終わると、彼女は私にこう言いました、「神は新しい働きをしに来られる時は、いつもサタンの勢力から妨害を受けます。主イエス様が働きをしに来られた時、ユダヤのパリサイ人たちがローマ政府と手を組んで主を十字架に釘付けにした時と同じです。今日、全能神は終わりの日の裁きの働きをしに来臨されましたが、全能神も同じように無神論を信じる中国共産党政府と宗教界からの非難と抵抗を受け、今の時代から排斥されているのです。実に、無神論を信じる中国共産党政権と宗教界の指導者の大多数は神と真理を嫌うサタンの勢力であり、それは主イエス様が十字架に張り付けられたことより分かることです。従い、それが真の道である限り、それは無神論政権と宗教界の拒絶と非難を確実に受けてしまうのです。私たちはこの世界にはびこる闇と悪を見抜き、神の働きを知る必要があります。これができないと、私たちも彼らに合わせて神を非難し、神に抵抗し、神の性質を害してしまうことになります。」これを聞いて、私は自分も同じ考えであることを示しました。

彼女の交流は完全に反論の余地がない内容でしたが、私は突然主が再臨なさっておられることを聞いたとたん、一瞬少しだけ疑念を持ちました。私は自分が前の教会の説教師ほどは聖書に精通していないと考えて、彼女と連絡を取りました。彼女は私に起こったことを知ってこう言いました、「彼女は東方閃電を信仰しているんだわ。これ以上彼女の言うことを信じたり、彼女と連絡を取ってはいけません。つい最近、東方閃電は私たちの教会から良き羊たちを全員奪っていったのです。私たちの教会の信者たちは皆、私たちが骨身を惜しまずに説教し、引率しているのに。彼女たちは私たちの羊たちを奪いにやって来たのです。」電話で不安そうな説教師の声を聞いた私は心の中で怖くなりました:「私の信仰が間違っていたらどうしよう?主は私をお嫌いになるかしら?」私はとても困惑し、心が悲しくなり、あっと言う間に板挟み状態に陥ってしまいました。私は心の中でこう考えました:「説教師は長年に渡って主に仕えておられるし、聖書を良くご存知で、聖書の知識を私より良く理解しておられるわ。だから、彼女は私よりも知識が豊富なはず。でも、ケチウ姉妹の交流も合理的でもっともらしい内容だし、それに主の再臨はとても重大な出来事だわ。私はこの地上で誰の言うことを信じればいいのかしら?」主イエス様のこの御言葉が頭に浮かびました。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」(マタイによる福音書7:7)。これを受けて、私は、神に祈って私を導いてくださるように、そして私が正確に何をすべきかをお啓きくださるようお願いすることにしました。私は祈りを捧げている時、突然、東方閃電から来た人たちが教会の良き羊を全員奪った行ったと説教師が言っていたことを思い出し、とても困惑しました:「どうして彼女は兄弟姉妹たちが彼女の羊だなどと言えるのかしら?明らかに、私たち信者は主の羊なのに。」その時、私は牧師と長老たちが以前行っていたことも思い出しました。本部の牧師は傲慢で、彼は自分の名前を讃え、自分自身の証言をしていました。私たちのような普通の信者でさえ、彼には聖霊の働きが宿っていないことが分かっていたというのに、説教師は彼を深く尊敬して、崇拝していました。これは一体どういうことでしょう?さらに、説教師は私よりも聖書の知識に精通していたにもかからわず、彼女の説教は聖霊の御啓示を欠き、その全ては私たちの抱える現実問題を全く解決できない陳腐な理論ばかりでした。しかし、ケチウ姉妹が話してくれた真理は私の聖書に対する疑問とそれに関する問題を解明してくれただけでなく、私が神の働きに関する理解を沢山得られるようにまでしてくれたのです。加えて、私は全能神教会の兄弟姉妹たちと連絡を取った時、彼らが合理的に、かつ謙そんしながら喋り、集会では楽しみながら神の御言葉を読み、それぞれの神の御言葉における体験と知識、そして神の御言葉がどのようにして物事に関する彼らの観点を覆し、彼らの堕落した性質を変えてくださったかについて交流していたことを知りました。そして、こういった事柄の中で、私は全能神教会には聖霊の働きが宿っていることを知ったのです。その後、私は何度も祈り、探求した後、説教師の反対を押し切って全能神教会の調査を続行する決断をしました。

その後、調査を続けていると、説教師がまた電話をしてきました。彼女は私がまた全能神教会の兄弟姉妹たちと連絡を取っているのかと聞いてきました。私は、「はい、私は全能神教会について調べています」、と言いました。すると彼女はこう言いました、「どうしてあなたはそんなに困惑しているんですか?東方閃電は女性のキリストを説き勧めているんですよ。そんなことがある訳ないでしょう。主イエス様は男性で、世の終わりにも間違いなく男性として再臨されるのです。あなたは聖書をあまり理解していませんね。あまり深入りし過ぎない方が無難です、さもないと主が再臨される時、言うに耐えないほど後悔しますよ。」彼女の言ったことを聞いて、私は又しても困惑してしまいした:「説教師の振る舞いが主の御心に適っていないとしても、彼女は私より聖書に精通している。それは事実だわ。私の信仰は本当に間違っているのかしら?」私の心が揺らいでいたその時、説教師は声を落とし、またこう言って説得してきました、「私が辛抱して優しくあなたにこう勧めているのは全てあなた自身のためなのよ。」そして、彼女は全能神教会を中傷する噂を多く口にして、「悪に貢献してはいけません」、と言って脅かしてもきました。電話を切った後、私はすぐに悩みこんでしまいました。彼女のいかにも善意そうな説得は、ポットの冷水を頭の上からかけられたかのように私をとても落胆させました。私はどうして良いのか分かりませんでした。しかし、主イエス様はこう仰っておられました、「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(マタイによる福音書5:3)。この御言葉は私を励ましてくださり、探求し、調べ続ける意思を持たせてくださったのです。こうして、私はこの事態を解明する決意をしました。

その後、私は全能神教会の兄弟姉妹と連絡をとり、神の性別に関する問題について質問しました。私の質問を聞いた後、ある兄弟がこう言いました、「神の本質は霊です。霊は性別分けされません。肉となられた神が男性であれ、女性であれ、その御方が神の霊が受肉された御方である限り、その御方はキリストであり、神御自身であります。さらに、神がなさることは全て意味があります。神は意味や価値のない事柄には決して関与されません。あなたの質問について、先ずは聖書の中の創世記に記された記録を読んでみましょう、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記127)。この節より、最初神は男と女を神御自身のかたちに創造されたことが分かります。すなわち、神は男のかたちにもなり得るし、女のかたちにもなり得るのです。」その後すぐ、彼は私に神の御言葉の節を2つ読ませてくれました、「神による各段階の働きには実際的な意義がある。当時、イエスは男性として来たが、今回来る際、神は女性である。このことから、神は自身の働きのために男性と女性の両方を造ったが、神には性の区別がないことがわかる。神の霊が来るとき、それはいかなる肉体でも意のままにまとうことができ、その肉体は神を表すことができる。男性であろうと女性であろうと、それが神の受肉した肉体である限り、どちらも神を表せるのである。イエスが来たときに女性として現れたとしても、つまり、男の子ではなく女性の赤子が聖霊によって受胎されたとしても、その段階の働きはまったく同じように完成されたことであろう。そうだったならば、現段階の働きは女性ではなく男性によって完成されなければならないはずだが、それでも結局、働きはまったく同じように完成されることになる。いずれの段階でなされる働きにも等しく意義があり、どちらの段階の働きも繰り返されることはなく、互いに矛盾することもない。当時、イエスは働きを行う中で神のひとり息子と呼ばれたが、それは男性であることを示している。それでは、なぜ今の段階でひとり息子のことは言及されていないのか。それは、働きの必要性から、イエスの性とは異なる性へと変更せざるを得なかったためである。神に性の区別はない。神は思い通りに自身の働きを行い、また働きを行う中でいかなる制限も受けず、非常に自由であるが、働きの各段階にはそれぞれの実際的な意義がある。神は二度肉となったが、終わりの日における受肉が最後であることは言うまでもない。神は自身のすべての業を知らしめるために来た。人が目撃できるように自ら働きを行うべく、今の段階で神が受肉していなければ、人は永遠に、神は男性でしかなく、女性ではないという観念に固執するだろう」(「二度の受肉が、受肉の意義を完成させる」)

「神の知恵、神の素晴らしさ、神の義、そして神の威厳は決して変わることがない。神の本質、神が所有するものと神そのものは決して変わることがない。しかし、神の働きについて言えば、それは常に前へと進んでおり、絶えず深化している。神は常に新しく、決して古くないからである。神は時代ごとに新しい名前を名乗り、時代ごとに新しい働きを行ない、また時代ごとに、被造物に対して自身の新しい旨と新しい性質を見せる。新しい時代において、もし人々が神の新しい性質の表われを見られなければ、彼らは永遠に神を十字架にかけるのではないだろうか。またそうすることで、神を定義するのではないだろうか。もしも神が男性としてのみ受肉したならば、人々は神を男性として、男たちの神として定義し、女たちの神だとは決して信じないはずだ。すると男たちは、神は自分たちと同じ性別であり、男たちの長であるとするだろう。しかし、女たちにとっては何になるのか。これは不公平であるし、えこひいきではないか。そうであれば、神が救ったすべての人は神と同じ男ということになり、女は一人も救われないということになる。神は人類を創造したとき、アダムを創り、そしてエバを創った。神はアダムだけを創造したのではなく、自分にかたどって男と女の両方を創ったのである。神は男たちだけの神ではなく、女たちの神でもある」(「」)

この兄弟は言いました、「神の御言葉から、神は霊であり、神は性別分けされないことが分かります。神が異なる時代に異なる性別を選ばれるのは、神の働きにおける必要性に基づいています。時代が変われば、働きも変わり、神の性別も変わります。神が恵みの時代に女として現れていたとしても、贖いの働きは全て変わらず成就されていたでしょう。そして、終わりの日の神のかたちは男となります。このように、神は今まで異なる性別で二度受肉されているのも、神が男と女を創造された意味を完全なるものにしています。それに、異なる性別を選ばれることには神の知恵が込められています。神が恵みの時代に男として働き、今回も男として御言葉を表していたら、神は男にしかなれないと私たちは信じるでしょう。同時に、私たちは神を男と限定するため、女を見下してしまうでしょう。そうなれば、女に対してとても不公平です。これは神の義をより明確に表しています。同時に、神はこうすることで、神は男としてしか受肉できないという私たちの誤った信念を一掃してくださり、神は全能であること、そして神の知恵は人間には計り知れないものであることを知らせてくださっているのです。さらに、私たちは神の本質は霊であること、そして性別は人類にのみ適用されるものであることも理解しておく必要があります。神の性別は神が受肉された時代にのみ依存するもので、受肉された神の働きが成就すれば、神はもはや性別分けされなくなります。従い、神の働きは私たちには全く想像もつかないものなのです。私たちが何かを不可能である思えば思うほど、それには神の善良な御心がより強く込められているのです。創造物として、私たちは自分の観念と想像によって神を定義することはできません、なぜならそれは神の性質を害してしまうからです。」

兄弟は続けてこう言いました、「マタイによる福音書6:9にはこう記録されています。『だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。』 以前、主イエス様が弟子たちに天の神を私たちの天の父として祈るようお教えになったことを記した節に使われている '' という言葉を私たちはいつも使っていました。私たちは、神は天の父であるのだから、神は男にちがいないと考えがちです。実は、'' というのは受肉された神の人間の視点から見た天の神に対する敬称にすぎないのです。」彼の話しは私の心を完全に啓いてくれました。神がまた女として受肉されることは聖書の内容と一致しているのです。同時に、神は女になり得るし、男にもなり得るし、神には性別がないことも、私は理解しました。私は長年に渡り神を信仰していながら、神を知らず、いつも自分の観念と想像を頼りにしながら神を信仰していたことに気が付きました。さらに、私はやみくもに大衆に従ってもいました。牧師と説教師が何を言っても、私はそれを信じていたのです。私は東方閃電を調査することに全く専念していませんでした。私は本当に極めて愚かで、無知だったのです。主に感謝します。あの日の交流のおかげで、神が女として再臨されるということに関する私の観念は完全に取り除かれました。

その後、あの説教師が以前中国にいた時、兄弟姉妹たちが彼女に全能神の福音を説きましたが、彼女は真理を求めることを拒否し、やみくもに自分の観念に固執したので神の救いを受ける機会を逃していたのだと私は理解しました。この事柄について、私はとても困惑したので全能神教会の姉妹に尋ねました、「表面的には宗教界の説教師と牧師の霊的生活は私たちのよりもスケールが多いもののように見えます。なので、彼らは全能神の表す御言葉は全て真理であることを知り得るはずです。しかし、彼らはどうして終わりの日の全能神の働きを探求することも、調べることもしないだけでなく、全ての側面において私たちがそれを探求し、調べることを妨害するのですか?」私がこう言ったのを聞いた彼女は私のために神の御言葉のこの節を見つけてくれました。「荘厳な教会で聖書を読み、一日中聖句を唱える人がいるが、そうした人は誰一人として神の働きの目的を理解していない。そうした人は誰一人として神を知ることができず、ましてや神の心意と一致することなど到底できない。そのような人はみな、価値のない下劣な人であり、高い位置から神を説く。神を旗印に使いながらも、故意に神に反対する。神を信じていると断言しながらも、人の肉を食べ、人の血を飲む。そのような人はみな、人の魂を食い尽くす悪魔であり、正しい道を歩もうとする人をわざと邪魔する悪霊の頭であり、神を求める人を妨害するつまずきの石である。彼らは「健全な体質」をしているように見えるかもしれないが、神に対抗するように人々を導く反キリストに他ならないことを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか。彼らが人間の魂をむさぼり食うことを専門とする生きた悪魔であることを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか」(「神を知らない人はすべて神に反対する人である」)。彼女はこう言いました、「宗教界の牧師たちは終わりの日の全能神の働きを探求することも、調べることもしません。1つの理由として、それは彼らの本性が傲慢であり、彼らが真理に従っていないことが挙げられます。彼らは、表面的には神を信仰していますが、実際には自分自身を信仰しているのです。神の働きが自分たちの観念と一致していなければ、彼らはそれを拒否してしまいます。彼らは神を自分たちの観念と想像の中で、聖書の字義どおりの意味で定義しています。神の宣教がどれだけ深く、正しいものであろうとも、また神の御言葉にどれだけの権威と力があろうとも、彼らは変わらずそれらを非難し、それらに抵抗し、これは彼らが神をれる心を全く持っていないことを示しています。彼らは真理を求めることもなく、神から御啓示を受けるのを待っているだけです。彼らは単に自らを買い被っているだけなのです。もう1つの理由として、彼らは自分たちの地位を過剰に大事にすることが挙げられます。自らの地位と生活を守るために、彼らは東方閃電が真の道であることを知っていながらも、東方閃電を拒否します。彼らはかつてのパリサイ人と同じです。彼らは主イエス様が働きをされた時、主が多くの真理を話されたこと、多くの奇跡をお見せになったこと、人々に沢山の恵みを与え、神の権威と御力を証明されたことを完全に知っていました。しかし、彼らは主イエス様の働きがユダヤ教に衝撃を与えていたことを知った時、主イエス様が働きをし続けたら、多くの人々が確実に相次いで主に従うようになり、そうなる頃にはユダヤ教は滅びてしてしまうと悟ったのです。なので、彼らは自分たちの地位と生活の糧を守るため、兵士たちに賄賂を払って嘘の証言をさせて、主イエス様は蘇っていないと言わせたのです。主の弟子と使徒たちが各地に散らばって主イエス様の福音の証言をした時、パリサイ人たちは狂信的に抵抗して彼らを迫害しました。パリサイ人たちは宗教界を永遠に操るという野心を実現するために、主イエス様が働きをするのを禁じようとしました。パリサイ人たちは神を名目上でしか信仰していなかったのです。実は、彼らは神に抵抗し、真理を嫌っていたのです。神に抵抗する傲慢さと主イエス様に対する嫌悪が彼らの野心と神を嫌う反キリスト的な本性を暴露しました。実際に、宗教指導者たちは全能神の御言葉をもっと読みさえすれば、全能神の御言葉と働きより、全能神は主イエス様の再臨であることに気が付くはずです。しかし、彼らは神をれる心を胸に終わりの日の神の働きを探求することも、調べることもないだけでなく、永遠に人々を操り束縛するという野心を叶えるために、人々が真の道を探求し調査するのを精一杯妨げようとするので、人々は永遠に神の救いが受けられなくなってしまうのです。彼らは魂を貪る悪魔で、その全員が終わりの日の神の働きによって暴露される反キリストなのです。」

私は全能神の御言葉を読み、そしてこの姉妹の話を聞いて初めて牧師と説教師の本質を知りました。私が今までずっと比較的に信頼を置き、尊敬してきた説教師は神に抵抗する反キリストだったのです。彼女は私が終わりの日の全能神の働きを探求し、調査することを幾度となく邪魔し、出来る限りのことをして私を妨害し、私が神の前に行くことを好みませんでした。さらに、彼女は私のことを気にかけているふりもしましたが、私はそれを見破ることができず危うく彼女の策略に陥りそうになったのです。私はこれら宗教指導者たちは極めて陰険で狡猾であることを知りました。同時に、私は、神が好まれる人々は、謙遜して真理を求める人々であり、聖書の知識を理解していると勝手に信じ、傲慢に神の働きに批評を浴びせるような人々ではないことも理解しました。従い、私は自分を脇に置き、謙遜して探求することを学ぶ必要があり、傲慢で無知であることを理由に真の道への扉を閉ざしてはならないのです。その後、私は集会に参加し、神の御言葉を飲み食いし、兄弟姉妹たちがそれぞれの体験と証言を話すのを聞き、全能神の表す御言葉は全て真理であること、そして私たちの堕落した性質を取り除き永遠のいのちを手にするために歩む必要のある道であることを知りました。これ故に、私は子羊の足跡を密接に辿り、終わりの日の全能神の働きを受け入れました。

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