聖霊の働き-わびしい教会のための解決策が見つかりました

    2018年 10月 22日

    寄稿家:ジエン(香港)

    私はもっと分別のある年になった時、自分が人気のない子供であったことに気が付きました。私は幼い頃から残念な経験ばかりしており、歩いているだけでこけてしまうことすらありました。私は自分が本当に運の悪い人だと感じていました。私は、「どうしてなんだ?どうして嫌な目に遭うのはいつも私なんだ?」、「どうして人は生きなきゃいけないんだ?」、と頻繁に考えました。私は大きくなってから、溺れそうになって藁を掴もうとしている者のように観音菩薩、仏陀の他に名前すら知らなかった様々な偶像を沢山崇拝し始めました。人々が不幸から遠ざけてくれるものだと言っている限り、私はそれを崇拝しました。しかし、私の生活においては何も変わりませんでした。

    人生のどん底にいた時、私は主イエス様の福音を説いてくれた長老と知り合いになりました。すぐに、私は彼がくれた住所に足を運び、兄弟姉妹たちと集い始めました。徐々に、私は主イエス様は天と地、そして万物を創造された唯一なる真の神であられ、人は彼によって創造されており、全てが彼によって制御されていることを知りました。1998年8月、私は洗礼を授かりました。最初、私は積極的に集会に参加していましたが、主イエス様に関する真の知識はもっていませんでした。しかも、私は幼い頃、愛情に欠ける生活環境で育ちました。それ故に、私はキリスト教でいつも説かれていた「神が愛で、私たちはお互いを愛すべき」という教義を全く感じることができませんでした。代わりに、私は信仰者たちが頻繁に嫉妬したり、口論をしているのを見ました。教会で、ある姉妹の子供が良い仕事を見つけると、その同僚が嫉妬して、「どうしてあなたの子供は良い仕事が見つかったのに、私のは見つけられないの?」と繰り返し言っていました。神に仕えている者たちですら社会的地位の高い人たちを特に尊敬していました。自分の犯した罪に圧倒されている人が助けを求めてきても、彼は冷たく断られていました。私たちの教会の牧師は本土で比較的有名な方でした。彼は説教を説く中で、主のために、そして主の他の御業のために20年間も苦しんで刑務所に入れられていたことを何度も証言していましたが、神の御業についてはほとんど触れていませんでした。したがい、多くの人々が彼を尊敬し、従っていました。 時折、彼の名声に惹かれた海外の有名な重要人物、または近隣国の信仰者が彼を訪れてきて、彼はそれで得た資産を誇示していました。私は彼は自らを称賛して、自らの証言をしており、神の証言はしていないと思いました。私は彼らの行動に言葉が詰まりました。半年後、私はキリスト教会を去り、自分の人生を生き続けました。。。しかし、偶像たちを崇拝していた頃の生活とは違い、主から離れた後の4年間、私は常に主のことを考えていました。主の御立場は私の心から決して薄れて行かなかったのです。

    教会,聖霊,再臨

    2002年12月、私は又しても人生のどん底に落ちました。 私は仕事と恋愛に失敗して落ち込んでいたのです。「人の終わりは神の始まり」であると言われていました。私が解雇される数日前、私は自分の同僚が参加していた中国人のための自宅の集会に参加することに賛成しました。私は以前、彼の招待を何度も断っていましたが、今回はとても参加したく思ったのです。その日の夜、私は自分と似た経験をもつ姉妹と出会いました。彼女は香港出身で、この集会に初めて参加していました。彼女が共有してくれたこと全てが私の心に触れ、私は感動しました。私の心は主に近づいたのです。私はこれが主の御采配であったのだと分かりました。主の元に戻ったことで、私は神が愛であることを心から実感しました。私は神から離れましたが、神は私のことを諦めておられなかったのです。神の元に戻ったことが私の霊的人生の転機となったのです。神様、有難うございました!

    2005年に結婚した後、私は香港での生活に慣れていなかったので中国本土でよく生活していました。私は2012年に娘が生まれるまで香港には定住しませんでした。当時、私はいつくかの教会に通っていました:中国本土のThree-Self教会と地下教会、香港のChristian and Missionary Alliance、Peaceful Gospel教会、Baptist教会、James教会、Pentecostal教会。私はこれらの名前は違ってもそれぞれの状況において共通点が沢山あったことを知りました:牧師と長老たちは人によって尊敬したり、見下したりと、それぞれの好みによって信仰者たちを扱っていました。そして信仰者たちはほとんどの場合、熱心でもなければ、冷めてもいないう状態でした。その多くは名目上でのみ信仰しており、弱弱しいことも頻繁あり、集会も祝福を得るためだけに参加していました。集会の場でも、牧師と長老たちは頻繁に情報の共有をし合っていたので、新しい見解は全くありませんでした。そして、彼らは説教を終える前に何度も祈りを捧げ、何日もかけてその準備をしていました。説教が魅力的であるかどうかは、それにユーモアがあるか、活気があるか、説得力があるかどうかによりました。演壇上の説教が面白くなければ、聴衆は居眠りをするか、早くにその場を後にしていました。大抵の場合、説教師たちはとりなしの祈りですら予め書き出してあり、祈りを捧げる際にそれを読んでいたのです。。。後に、私は、教会で働く牧師と長老の大多数は信仰者たちによって選任されるか、勧誘されていることを知りました。彼らは自分たちの仕事を保持するために信仰者たちの機嫌をとることに全力を尽くしていました。そして、彼らは大胆にも主の教えに逆らう信仰者たちを叱ろうとすらしていなかったのです。中には金の冥銭と銀の冥銭を販売している者までいました(注:「冥銭」は中国人が祭事や内祝の場で火による捧げものとして使用するもので、神には金の冥銭が、先祖と霊には銀の冥銭が捧げられています)。しかし、信仰者たちの機嫌を損ねて自分たちの地位を失うことを恐れた牧師と長老たちはこれに干渉しようとはしませんでした。信仰者の中には無信仰者の旦那がいて、彼女は彼から毎日お香をたいて仏陀を崇拝するよう言われていました。こうして、彼女は牧師と長老にこの偶像を崇拝し続けても良いかどうかを尋ねました。それでもなお、彼らは彼女に無信仰者である家族が求めることをし続けてよいと伝え、この節を例として用いたのです、「どうぞ主がこの事を、しもべにおゆるしくださるように。すなわち、わたしの主君がリンモンの宮にはいって、そこで礼拝するとき、わたしの手によりかかることがあり、またわたしもリンモンの宮で身をかがめることがありましょう。わたしがリンモンの宮で身をかがめる時、どうぞ主がその事を、しもべにおゆるしくださるように」(列王紀下 5:18)。しかし、私は聖書にこう記してある節があることを思い出しました:「これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、『人間に従うよりは、神に従うべきである。』」(使徒行伝 5:29)。牧師と長老たちは自分たちの関心事を神よりも重要なものとして捉え、神よりも人を畏れていました。私はこう疑問に思いました:「彼らは神の信仰者じゃないのか?彼らは聖書を好きなように解釈しているのではないか?これは明らかに主の教えに反しているのではないだろうか?」 彼らの振る舞い全てが私の状態を増々悪化させていきました。次第に、私は聖書を読んでいても何の光明も見えなくなり、集会への参加や祈りを捧げることに何の喜びも感じない状態に陥ってしまいました。長い間、私は聖書を読む気が起こらず、私の霊的状態は又してもどん底に陥ってしまいました。私は自分の魂を満たしてくれる教会を切望し、それを求めて神に祈りを捧げ続けました。

    私は2016年8月にもう一度神の御恵みを授かりました。私たちの教会の姉妹が私を全能神教会の兄弟姉妹たちに紹介してくれました。私たちは新・旧訳聖書時代における神の御名前と働き、主イエス様の再臨と働きのあり方、主の裁き、善人と悪人そして麦と毒麦を分けられたこと等、多くの側面について聖書を一緒に二週間近くも検索しました。このような話し合いは私に今ままで体験したことがないような喜びを与えてくれました。私は心の中でとても満足しました。一日中語り合った後、私は全くそれが退屈だと思わず、むしろ翌日の集会が待ちきれませんでした。2週間ほど続いた交流の中で、兄弟姉妹たちは全能神の御名前、そして主イエス様が再臨され、恵みの時代になされた贖いの働きを土台とした世の終わりの裁きと清めの働きをなされておられると証言してくれました。当時、私は心の中で思い悩み、自分の無知さが原因で誤った道に進んでしまわないかと心配で、このまま続けて話しを聞いているべきがどうかが分かりませんでした。しかし、当時の調査と会話は聖書から逸脱したものではなく、あらゆる点において十分な根拠に基づいていました。彼らがもし、何の証拠もなしに主が再臨されたと言っていたのなら、それは間違いなく信じられませんが、主の再臨に関する預言、主が再臨される方法、なされる働きだけでなく、主の新しい御名前まで、全てが聖書に基づいた証拠があるのです。こう考えながら、私は調査を続行することにしました。

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    集会の終わりに、全能神教会の姉妹が「永遠の福音 – 神の国による御救いが到来した」と題した神の御言葉の書籍を持っていると言いました。彼女は私にそれを読んでみたいかと聞いてきたので、私はまったく躊躇せずに受け取りました。帰宅した後、私は時間があればいつもその本を読みました。私は読めば読むほど、増々止まらなくなり、もっと読みたくてたまらなくなりました。この書籍の御言葉はとても素晴らしいものだったのです!私は人間にはこれらの御言葉を執筆できる人はいないと感じました。人による執筆は大抵の場合が一方的で、不純で、理論的で、個人的な体験が含まれているものですが、この本には人の堕落した本性の御啓示と神の働きにまつわる謎を初めに、神の権威、御力、威厳、御怒りがほのめかされていました。これ故に、私は神御自信を除いて、このような御言葉を執筆できる方は誰もいないと確信しました。

    後に、兄弟姉妹たちはどうして私が以前行った教会の多くは増々わびしい状態になっているのか、どうして兄弟姉妹たちは信仰と愛を失ってしまうのか、どうして説教師たちは途方に暮れて何を説いたらいいのか分からなくなっているのか、どうして宗教団体全体が聖霊の働きを失ってしまうのか等、重要な問題について交流してくれました。姉妹は2つの節を私に読んでくれました、今現在が世の終わりの終末期であることは誰もが知っています。主イエス様はかつてこう預言されました:「また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう」(マタイによる福音書 24:12)。現在、宗教における不正行為はどんどんまん延しています。宗教指導者たちは主の戒律に従っていないのです。代わりに、彼らは人々の持つ習慣に固執し、自己顕著するために聖書に関する知識を説いて自分達の証言をしますが、それは神の証言をするためでも、神を賛美するためでもないのです。彼らは主の道から完全に逸脱してしまっているのです。従って、彼らは神から排斥され、除去されているのです。これが宗教界が聖霊の働きを失った主な原因です。 加えて、主イエス様はまた受肉され、教会を出発点とした裁きの働きを開始されました。全能神は、世の終わりのキリスト様として、世の終わりの神の働きを受け入れる人たち全員を清めるために人類を救うことに関する真理を全てお示しになり、聖霊の働きが神のこの働きに移行されているのです。世の終わりの全能神の裁きの働きを受け入れる人たちは聖霊の働きを授かり、いのちの生ける水を供給され、注がれているのです。神は神の御座の前に戻る人々を克服者とされ、神と心を一つにした者たちとしてくださります。しかし、依然として宗教的な場に留まって世の終わりの神の働きを拒否している者たちは暗くわびしい状態に陥ってしまいました。これが聖書に記されたこの預言を現実化してるのです:「『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった』と主は言われる。」(アモス書4:7-8)。 ここにある、「この畑は雨をえ」は世の終わりの神の裁きの働きを受け入れて、それに従順な教会のことを指しています。彼らは神の現在の御言葉を受け入れたことで、神の御座から流れるいのちの生ける水の御備えと注ぎを授かったのです。「かの畑は雨をえないで枯れた。」 は主の御言葉を実践することを拒否して主の戒律に背く宗教的な牧師と指導者たちのことを指しています。 彼らが世の終わりの全能神の働きを拒絶し、それに抵抗し、それを非難しているために宗教界は神から排斥され、呪われており、聖霊の働きを完全に失い、生ける水の御備えを全く授かれず、わびしい状態から抜け出せなくなっているのです。これは律法の時代に、かつてはヤ―ウェ神の栄光で満ちていた礼拝堂がわびしくなってしまったのと同じです。ユダヤ人たちは宗教法には固執しませんでした。牧師たちは不適切な犠牲を払いました。礼拝堂は商売の場、そして盗人の巣窟と化してしまいました。どうしてこんなことが起ってしまったのでしょうか?主な理由はユダヤ人の宗教指導者たちはヤ―ウェ神の律法に従わず、心の中で神を畏れていなかったからです。彼らは人々の習慣に従い、神の戒律に背いていました。よって彼らは神の道から完全に逸脱して聖霊の働きを失ってしまったのです。もう1つの理由として、神が恵みの時代に人類の罪を贖う働きをするために受肉されたということがあります。神の働きが変わったのです。主イエス様の贖いの働きを受け入れた者たちは誰もが聖霊の働きを授かり、新たな実践方法を手にしたのですが、主イエス様の働きを排斥し、それに抵抗した者たちは神の働きにより除去されてしまい、暗くわびしい状態に陥ってしまいました。

    「神が宗教界を飢えさせておられる理由は神を心から信仰し、真理を愛している者たちを宗教から抜け出させて神の足跡、聖霊が教会に仰っておられること、そして神の御姿と働きを追求させるためなのです。神の御声に耳を傾け、世の終わりの全能神の裁きの働きを受け入れてそれに従う者たちは賢い処女であり、神の御座へと携挙される人々なのです。これらの人々は子羊の婚宴に参加し、神の御座から流れるいのちの生ける水の御備えを授かり、以前持っていた信仰と愛が回復されたのです。彼らは誰もが真理を悟り実相の中にはいるために神の御言葉を飲食し、神の御言葉を実践、そして体験するための訓練をしています。人々は真理を理解して神の真の知識を得る時、神を畏れて神に従うようになります。そうしたら、彼らは神から新たないのちを授かるのです!全能神の働きを受け入れない宗教団体や個人は聖霊の働きを全く持たない状態で神から見捨てられ、除去されてしまいます。これには何の疑う余地もないのです!この全能神の御言葉を読んでみましょう:「神はこの事実を成し遂げる。彼は全宇宙のすべての人々を彼の前に迎え、地上の神を礼拝させる。他の場所での神の仕事は終わり、人々は真理の道を求めなければならなくなるだろう。それはヨセフのようだ。みな食べ物を求めて彼のもとを訪れ、頭を垂れた。彼は食べ物を持っていたためである。飢饉を避けるために、人々は真理の道を求めなければならない。宗教界全体が飢えており、今日の神のみが、人の喜びのために提供される、枯れることのない生ける水の泉であり、人々は彼のもとに来て彼を頼るだろう。」(千年神の国は訪れたにより)。

    これらの説明を聞いて、私はやっと宗教界がわびしい状態にある原因を理解しました。主イエス様が働きを開始された時と同様に、神の魂も礼拝堂ではもはや働いていなかったのです。聖霊の働きは主イエス様に従う弟子と信仰者たちに移行されました。宗教指導者たちは神の御心から完全に離れてしまい、彼らの行いも全てが神から忌み嫌われてしまったので、主イエス様は礼拝堂では働かれず、代わりに荒野で説教されたのです。働きの最終段階についても同じです。全能神が地上での働きに着手された時、聖霊は宗教の場での働きはお止めになりました。私が聖霊の働きを受けて、いのちの生かす水の注ぎを得たいのであれば、最も重要なことは世の終わりの全能神の働きを全力で求め、それを調査することなのです。私の霊的暗さは私が神の新たな働きについて行く場合に限って根元から解決されるのです。

    私は全能神が私を取り戻してくださったことに心から感謝いたします。聖書にはこう書かれています:「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録 3:22)。実はこれは世の終わりの神の御言葉を言及しています。神は信仰者たちを探すために世の終わりに御言葉を発せられます。私は幸運にもその1人であり、主イエス様によって神の御家に連れ戻していただいたのです。全ての栄光、権威、そして名誉、最高の全能神にあれ!アーメン!

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