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ソロモン王の知恵:「2つの花籠」から得た御啓示

ソロモン王の時代に人気のあった話があります。それは、こんな話です。ある日、ソロモン王は近隣の王国の使節から珍しい花が入った2つの花籠を受け取りました。これらの2つの籠の中の花は、その葉っぱも花びらも極めてよく似ていました。使節はソロモン王に「陛下、これら2つの籠の内、1つは本物の花で、他方は造花です。陛下のお知恵は世界中に知れ渡っており、我が国の全国民が陛下を尊敬しております。陛下、どうぞ、本物の花の入った籠と造花が入った籠を言い当ててください。それにより、我が国の国民は陛下の尽きることのないお知恵を間違いなく祝うことでしょう」と言いました。そう聞くやいなや、ソロモン王は従者に「これらの花籠を庭に運べ」と命じました。王が何をしようとしているかが分かる廷臣はいませんでした。しばらくして、ソロモン王は廷臣と使節を従え、花を愛でるために庭に出ていきました。庭には美しく咲き誇った花々が溢れており、甘い香りを放ち、たくさんの蜂が花から花へと飛び回り、蜜を集めていました。2つの花籠を見ると、ソロモン王は笑みを浮かべて、「あの籠の花は極めて美しいが蜂が寄っていかない。こちらの籠の花には蜂を引き寄せている。従って、本物の花だ」と言いました。廷臣と近隣の王国の使節は誰もが、感心して息を呑み、「あなた様は本当に賢い王様です!」と言いました。これは単純なお話ですが、ソロモン王の賢さを表しており、ここから、私達は霊的な意味も見出すことができます。いのちのある花だけが芳香を放ち、蜜を分泌し、蜂を集めることができ、その一方で、いのちのない花はいかに本物と似ていても、死んでいるため、芳香を放って蜂を引き寄せることも、蜂を引き寄せる蜜を分泌することもありません。

“2つの花籠”から得た御啓示

ソロモン王が本物の花と造花を区別したこのお話を読み、私は、次のように考えずにはいられませんでした:今日、神様の再来を熱心に待ちわびる主イエスの信者は数多くいますが、聖書に記載されている主イエスの次の御言葉のために、欺かれることを恐れて神様の再来の福音を拒んでいます。「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書24:23-24)。実際、神様がこれらの御言葉を述べられた理由は、私達が偽のキリストと本物のキリストを区別できるようにするためであり、終わりの日には偽のキリストが出現するため、神様の再来の福音を私達が拒むように仕向けるためではありません。欺かれることの恐れから偽のキリストに対するガードを固めることを優先し、神様の御声を聞いたり、認識したりすることに私達が注意を払わないならば、私達はどうやって主の再来に出会うことができるでしょうか?たとえば、ペテロやサマリア人女性のことを例に取ってみましょう。彼らは、主イエスの御言葉を耳にし、彼が降臨した救世主であられることを認識しました。ヨハネの黙示録2章7節には、次のように記載されています:「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。⋯⋯」また、ローマ人への手紙の10章17節には次のように記載されています:「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」このため、私達は主イエスの再来の福音を耳にしたら、それが神様の再来であるかを見定められるよう、まずはそれを求め、調査し、主と再会する機会を逃さないようにするべきです。

主の再来と出会うため、私達はまず、キリスト様とは何かを理解し、本物のキリスト様と偽のキリストを見定める方法を知らなければなりません。神様はこれについて、次のように仰っています。すなわち:「神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。(『終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる』より)神様の御言葉から、神様が受肉したお方のみをキリストと呼ぶことが分かります。キリストは神様の霊を受肉したお方で、神様の御出現で、神様の御働きを実行するために肉を纏った神様御自身です。キリスト様は平凡で普通の人の外見でありながら、その本質は神聖で、その働きは神様の働きそのものです。では、私達はどのように本物のキリスト様を見定めることができるでしょうか?神様は次のように仰っています:「受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。」「人間が自分を神と称しながらも、神性を示し、神自身の働きをし、あるいは神を表すことができないなら、それは間違いなく神ではない。というのは、その人には神の本質がなく、神が本来成し遂げ得ることがその人の内にはないからである。」神様の御言葉から、私達は本物のキリスト様を見定めるために、外見ではなく、その本質からつまり、その御働き、その御言葉、その御性情から、神様を主に見定めるべきであることが分かります。キリスト様は人に真理といのちを人にお与えになることができ、神様の義なる御性情と御働きの知恵を表現することができます。キリスト様は聖く、義なる神様御自身です。恵みの時代の主イエス様を例に取ってみましょう。イエス様は外見では普通の平凡な人と変わる所がありませんでしたが、多くの真理を表現され、人々に悔い改める方法を授けられました。御慈悲と慈しみ深い親切心によって占められる性情を表されたイエス様は、7度を70倍にするまで他者を許すことをお教えになり、病人を癒やされ、悪魔を祓われ、数多くの奇跡を起こされ、人々に律法に従わないように先導されたことにより、十字架にかけられ、全人類の罪を贖う御働きを完了されました。主イエス様の御言葉と御働きにより、議論の余地なく、キリスト様が真理であり、道であり、いのちであることを証明されました。今日、受肉し再来された主イエス様である全能の神様は、新しい時代である「神の国の時代」をもたらされました。神様は何百万という御言葉を表され、終わりの日の裁きの御働きを実行されました。人々が罪と懺悔の繰り返しの中で生きていく必要がもうないよう、そして、罪の拘束から最終的に解放され、神様により完全に救われ、完全にされるよう。神様はその義であり、聖なる性情を用いて人々を裁かれ、浄化されます。全能の神様の御言葉は、すべての謎を明らかにされ、神様の人類に対する御心、あらゆる人々に訪れる結末、神様が達成されようとしている御働きについて伝えてくださっているため、私達は真理を実践するためのより多くの方法を知ることができます。全能の神様の御言葉と御働きから、私達は、全能の神様が真理を具現化したものであることが分かります。その御働きは、キリスト様が真理であり、道であり、いのちであることを証明しています。これらは、偽のキリストには永遠に達成できないことです。

それでは、私達はどのように偽のキリストを見定めることができるでしょうか?神様は次のように仰っています:「人間が自分を神と称しながらも、神性を示し、神自身の働きをし、あるいは神を表すことができないなら、それは間違いなく神ではない。というのは、その人には神の本質がなく、神が本来成し遂げ得ることがその人の内にはないからである。」「この時代に、しるしや不思議を起こせる人が現れ、悪霊を追い払い、癒やし、多くの奇跡を起こし、またその人がイエスの再来であると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。……もし終わりの日に神がしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり癒やしたりしていたら──それならば、神はイエスの働きと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は、時代ごとにひとつの段階の働きをするのだ。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを悪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろからついていく。神は方法を変更する。一度神がその段階の働きを完了すると、悪霊がまねをする。こうしたことを理解しておきなさい。」「今日、神は恵みの時代を終わらせ、恵みの時代の実践をすべて捨て去るために来た。⋯⋯今日の神は、しるしも不思議も行なわず、癒やすことも悪霊を追い払うこともしない。イエスが来た時、その働きは神の一部を示すものであったが、今回の神は、この段階でするべき働きをするために来たのだ。神は同じ働きを繰り返さない。神は常に新たな神であり、絶対に古いものではない。あなたが今日見るものはすべて、実際の神の言葉と働きである。」

神様の御言葉から、私達は、神様が常に新しく、決して古びない存在で、神様の御働きが常に前進していることを知ることができます。今日、終わりの日のキリスト様である全能の神様が新しい働きに着手されています。神様は御印や奇跡をご披露されたり、病人を癒やされたり、悪魔を祓われたりしませんが、真理を表現されることにより、人を裁き、清め、完全にされる御働きを実行され、人に新しい時代で実践する方法をお教えくださっています。そのため、印や奇跡を披露し、病人を癒やし、悪魔を祓うため、我こそがキリストだと主張する人物が現れれば、その人は完全に、イエスの御働きを偽造した悪霊です。神様がその御働きの1つの段階を完了されたとき、悪霊が神様の後に続き、神様が完了された御働きを模倣するでしょう。人が神様と悪霊を区別しなければ、騙されてしまいます。

さらに、偽のキリストには真理がないため、真理を表すことができません。彼らは、神様がこれまで実行されてきた御働きを模倣し、いくつかのちょっとした奇跡と不思議を披露することにより人々を欺くことしかできませんが、5つのパンと2尾の魚を5000人の人に分け与えたり、死んだラザロを蘇らせたり、海の嵐を静めたりするなど、主イエスがお見せになった奇跡は決して模倣することができません。彼らは主の御働きを模倣した悪霊であり、万物を支配またはコントロールする権威も力もなく、これらのことは、彼らの本質により完全に見て取ることができます。それは、神様が次のように仰っているとおりです:「遅かれ早かれ、偽キリストはみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。」そのため、本物のキリストと偽のキリストを区別する原則を習得することができれば、欺かれることを心配することはなくなるでしょう。今日、全能の神が表現される真理により、私達は、あらゆるポジティブなこととネガティブなことを区別することができるようになっています。欺かれることを恐れ、終わりの日のキリストの御救いを求めたり、調査したり、受け入れたりしないでいれば、終わりの日の神様の御救いを受けることができなくなるでしょう。

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