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ユダヤ人の血と涙は世の終わりの人にどんな警告を与えたのか

ユダヤ人というと、わたしたちはこの民族が二千年近く虐殺されたり、亡命したりしていたという長い歴史を思い出します。1948年イスラエルが復国する前に、ユダヤ人は故郷も祖国もなく、世界各地に亡命し、各国の人に唾棄され、排斥されていました。最もひどいことに、何度も大虐殺に遭いました。

紀元70年、ローマ帝国の皇帝ウェスパシアヌスの皇太子ティトゥスは十万人の部隊を率いてイスラエスの首都エルサレムを包囲攻撃し、ユダヤ人に対して破滅的な大虐殺を行ないました。その死亡者数は百万人を超えました。生け捕りにされた多くのユダヤ人はローマ人に売られて、船や山で苦しい労働をするように強いられました。また多くの人は競技場に送られて、獅子と格闘してローマ貴族を楽しませるように強いられました。あの戦乱の中で、エルサレムの神殿は大きな火に焼かれました。それ以後、ユダヤ人は安心立脚の地、身の置き所がなくなり、次々に諸国に逃亡し、異国を流浪しました。

紀元7世紀、イスラム勢力が絶えず伸びていました。多くのユダヤ人はイスラム教に改宗するのを拒んだため、殺されました。

紀元14世紀、ヨーロッパの広い範囲で黒死病が蔓延していました。ユダヤ人はこの疫病の伝染源だといううわさがヨーロッパで流れていたので、ヨーロッパに亡命するユダヤ人の半数は殺されました。

第二次世界大戦の間に、ヒトラーはユダヤ人に対する集団虐殺を行ないました。大戦の直前、ナチス・ドイツはニュルンベルクで法案を通過させ、ユダヤ人が人身の自由のない民だと公表し、また彼らのすべての権利を剥奪しました。その後、何千何万というユダヤ人はドイツから追い払われました。第二次大戦の勃発後、ナチス・ドイツは戦争に乗じて、ユダヤ人に対する迫害を、史上かつてなかった頂点に至らせました。すると、ヨーロッパの多くの国のユダヤ人は次々と殺害されました。ある人は銃殺され、ある人は絞め殺され、ある人は生き埋めにされました。その後、ナチス・ドイツは捜査によって逮捕したユダヤ人たちを大量に強制収容所に送りました。一部の人は選ばれて苦しい労働をし、ほかの人はガス室に送りこまれて化学薬品によって殺されました。戦後の統計によれば、ヨーロッパの各国でナチス・ドイツによって殺されたユダヤ人は600万以上いたそうです。

ユダヤ人の血と涙は世の終わりの人にどんな警告を与えたのか

実は、エルサレムの神殿が破壊されたことも、ユダヤ人が亡命したり、集団虐殺されたりしたことも聖書の預言の成就です。申命記第28章25節にこう書かれています。「主は敵の前であなたを撃ち破らせられる。あなたは一つの道から敵を攻めるが、その前に敗れて七つの道に逃げ去る。あなたは地上のすべての王国にとって恐るべき見せしめとなる」。主イエスもイスラエルに対して次のように言われました。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で撃ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前らの子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」(マタ23:37-38)。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(マコ13:2)。ユダヤ族の悲惨の歴史を見渡せば、聖書の預言がみな正確に成就したことを確証することができます。しかしなぜこれらのことが起こったのだろう。神は預言の成就のために事を行われるのですか。断じてそうではありません! 神は人の命を粗末に扱うことはありません。では、ユダヤ人のしたどんなことが彼らに国の滅亡のつらさを味わわせたのですか。

わたしたちが知っているように、神は二千年前に主イエスという名によって、初めて受肉して人の世に来てわたしたち人類を贖われました。主イエスは働いている間に、悔い改るべきだという教えを宣べ伝えられました。彼はまた、力あるしるしや奇跡を行なわれました。例えば、盲人が見えるようになったとか、足の不自由な人が歩けるようになったとか、風と海を静めたとか、死人を復活させたなどです。当時、ますます多くの、主イエスの言葉を聞き、主の行なわれたしるしや奇跡を見た人は主の全能と権威に征服され、次々に主に立ち返りました。それと同時に、ユダヤ教のリーダ、すなわち祭司長、律法学者、パリサイ人は別の心理状態にありました。民が主イエスにつき従ったら、自分たちの地位と利益がなくなるのではないかと、彼らは心配していました。そこで、彼らは旧約聖書の文字によって主イエスを罪定めし、主イエスの名がメシヤではないという理由で、あらゆる面で主に敵対していました。彼らは、主イエスが律法に背き、安息日を守らないと非難し、しかも主イエスを冒涜し、主イエスに関するデマをまき散らすことさえし、また、聖霊からの受胎によって生まれた主イエスをナザレの大工の息子だと言いなし、主イエスが悪霊のかしらベルゼブルの力で悪霊を追い出している……と言いました。彼らは主イエスのために十分なデマ、罪名をでっち上げた後、主イエスに手をかけて捕らえ、しかもローマ人の手で主イエスを殺すと決めました。当時のユダヤの民の態度は何でしょうか。彼らのうちの多くの人は、ユダヤ教のリーダたちが一生ヤーウェ神に仕え、毎日人に聖書を解説し、人に律法を守るように教えるから、宗教のリーダたちの言葉はきっと正しいと思っていました。そのため、パリサイ人にそそのかされたユダヤの民も狂おしげに主イエスを罪定めしました。彼らはローマ政府に殺人犯バラバを釈放させても、主イエスの釈放を要求しようとしませんでした。ローマの総督ピラトがユダヤ人に「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」(マタ27:24)と言った時、ユダヤ人たちは「その血の責任は、我々と子孫にある」(マタ27:25)と言いました。理性を失ってしまったユダヤ人は自分と子孫の命を賭けても、主イエスを十字架につけようとしました。そのため、この上なく大きな罪を犯し、神の義なる性質を犯し、二千年近くにわたる国の滅亡のつらさを味わいました!

二千年来、主を信じるすべての人は主が憐れみ、慈しむ主だと知り、人がどんな悪いことをしても、主の赦し、憐れみを得られると思っています。しかしユダヤ人の歴史が言及される時にだけ、わたしたちは主の性質に対する自分の本当の認識が一体どれほどあるかをまじめに反省します。実際には、主は原則と状況によって人類を憐れまれるのです。もし人が理性を失って狂気じみたように神に逆らい、神を冒涜し、しかも受肉したキリストを十字架につけさえするなら、神はやはり人を憐れまれるでしょうか。ユダヤ人は主イエスを十字架につけて、主の尊い血の最後の一滴まで流されるようにしました。このような大罪を犯した彼らはどうして神に呪われず、懲罰されないことがあるでしょうか。

主は憐れみ、慈しむ主です。しかし主の憐れみ、慈しみは、真心をもって彼を信じる、神を畏れる心を持つすべての人だけに与えられます。主イエスが働いている間に、主イエスに逆らったユダヤ教のリーダたちや、定見のない民たちと違って、一部の人は確かに主イエスの憐れみと祝福を得ました。彼らは、主イエスの言葉を聞き、主イエスの行なったしるしを見たので、主イエスが真の神だと確信したすべての弟子と追随者です。例えば、弟子ペテロ、ヨハネとか、サマリヤの女などです。聖書にこのようなことが記されています。ペテロとその兄弟アンデレは主イエスについて行く前に、ガリラヤの海辺で漁をすることで生計を立ていたのです。ある日、主イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタ4:19)という言葉だけ言って、彼らを召されました。そこで、彼らはすぐに網を捨てて彼に従って行きました。ある日、主イエスは一人のサマリヤの女を見て、彼女に五人の夫がいるという秘密を言い出されました。それで、サマリヤの女は主イエスが来たるべきメシヤだと信じました。そして、彼女は「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」(ヨハ4:25)と言いました。ペテロ兄弟とサマリヤの女の経験から分かりますが、神の声だと分かると、ためらうことなく主を信じ、主につき従う人こそが、本当に主と同在し、主の祝福と約束を得ることができる人です。

あらゆるクリスチャンが知っているように、世の終わりは主が再来される日です。月が四回血に変わるという聖書の預言はもう成就しました。地震、疫病、虫害、洪水、干害などの災難もしきりに起こります。いろいろの兆しは、世の終わりの裁きの日が来たことを示しています。わたしたちが直面している問題はこうです。主が本当に来られたなら、わたしたちは彼が主だと知ることができますか。わたしたちはペテロやサマリヤの女と同じように、神の声を聞くと主につき従いますか、それともユダヤ人の二の舞を演じますか。

ルカによる福音書では、主イエスは世の終わりの彼の再来についてこう預言されました。「しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている」(ルカ17:25)。主は、彼が世の終わりに来た時、苦しみを受け、世の人から排斥されると言われました。神を信じるのに、神に逆らって、国の滅亡のつらさを味わったユダヤ人の失敗は、後人のわたしたちにとって教訓となりました。だが、世の終わりに「今の時代の者たちから排斥されることになっている」という主イエスの言葉がどういう意味か、主の再来を拒絶するという預言がどんな人の身に実現するか、わたしたちが分かりません。本当に神を畏れる心を持つ人はみなユダヤ人の二の舞を演じたくないと、わたしは信じています。だから、わたしたち自身がユダヤ人の歴史の悲劇を繰り返すことを防ぐために、わたしたちは教訓をくみ取るべきです。主が再来したという福音がいつかわたしたちに宣べ伝えられたら、わたしたちもパリサイ人と同じように聖書の文字をかたくなに守り、メシヤの再来だけ信じて、メシヤという名をかたくなに守り、神の働き、言葉の中から真理の道を調べない可能性がありますか。周りの人がわたしたちが主に近づき、主が再来したという福音を調べるのを阻止するなら、わたしたちもあの時の愚かなユダヤの民と同じようにデマを信じ、悪者と一緒に悪を行なって神に逆らい、神を冒涜する可能性がありますか。主の日がもう来ました。これらの問題は確かに、わたしたちがまじめに考えるべき問題、いつでも戒めとすべき問題です。

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