神様の性別の奥義を理解して、主の再臨をお迎えする(II)

    2019年 11月 19日

    寄稿家:余光(カナダ)

    ある日、私が元々所属していた教会の姉妹が自宅に来て、熱心にこう言いました。「姉妹、主を信じる兄弟姉妹はみんな主の再臨を切望しています。いまや主はお戻りになったのですから、神様の性別が自分の観念に合わないからというだけでそれを探し求めも考察もしないなら、神様を閉め出していることになりませんか。それは主の御心と一致しているでしょうか。主イエスはこうおっしゃいました。『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう』(マタイによる福音書 7:7)探し求めたり考察したりしないなら、どうして主が扉を開けてくださいますか。どうして神様の出現をお迎えすることができますか。イエス様の時代を振り返ってみると、パリサイ人は聖書によく通じていましたが、主イエスの到来が自分たちの観念に合わないからといって、主を生きたまま十字架にかけ、ユダヤ人は亡国の苦しみに遭いました。私たちもパリサイ人と同じ道を辿ろうとしているのですか。神様は本来霊であり、かたちがなく、見ることも触れることもできず、性別はまったくありません。神様が肉となられて初めて、男女の区別が生じたのです。神様が男女どちらで受肉なさろうとも、その働きの目的は変わらず、神様を愛する人全員をサタンの影響から完全に救われ、御国へと導かれることなのです」

    姉妹の短い言葉は私に優しく思い出させる働きをしました。私は考えました。そうだわ。主イエスがおいでになって働きをなさったとき、ユダヤの祭司長や律法学者やパリサイ人は聖書によく通じていて、何世代にもわたって神殿で神様に仕えてきた。でも主イエスが普通で正常に見え、王様のような顔つきをなさっておらずメシアと呼ばれていなかったから、彼らは主を断罪して冒涜し、主がお話しになる真理を拒んで受け入れず、しまいには主を十字架にかけた。いま、私は主がお戻りになったと聞きながら、それを探し求めも考察もせず、その代わりに受け入れるのを拒み、主の到来を説教しに来てくれた兄弟姉妹を何度も何度も家に入れなかった。私はパリサイ人と同じ道を歩んでいるんじゃないかしら。私が黙ったままでいるのを見た姉妹はこう言いました。「ここに神様の御言葉の本を持ってきました。どうか真剣に読んでください」彼女の誠意に溢れる言葉と期待に満ちた表情は、私の心を和ませました。長いあいだ、兄弟姉妹は福音を説教しようと何度も何度も私の家に来てくれましたが、神様から直接与えられたのでない限り、誰ひとり信仰と愛をそこまで多くもっていないでしょう。それで私は本を受け取り、そのように考察することに決めたと姉妹に言いました。

    神様の性別の奥義

    姉妹が帰ったあと、私は待ちきれずに本を開きました。読めば読むほど、この本の御言葉には権威と力が大いにあると感じました。その本は創世から終わりの日に至るまで、旧約聖書から新約聖書に至るまで、新約聖書から黙示録に至るまで、神様の働きの三段階をはっきりと明瞭に語っていました。それはまた、私たちの現状と神様への信仰に関する見解を暴き、読むにつれてすっかり納得しました。これらの御言葉は神様の御声だと感じるとともに、神様以外に誰が人類についてここまで完全に認識しているだろうか、どんな有名人や偉人もこれらのような権威ある言葉を語れたことがない、と思いました。自分が長期にわたって干ばつに苦しみながら、その後いのちの水で潤された苗木のように感じられました。むさぼるようにその本を読んでいると、霊がますます心地よさを感じていきました……

    ある日、私は次の神様の御言葉を読みました。「神による各段階の働きには実質的な意義がある。イエスが来た時男性であったが、今回は女性である。このことから、神はその働きのために男と女の両方を造ったが、神には性の区別がないことがわかる。神の霊が来るとき、それは意のままにいかなる肉体でも持つことができ、その肉体が神を表す。男性であろうと女性であろうと、それが受肉した神である限り、どちらも神を表す。イエスが女として現れたとしても、つまり、男ではなく女の赤子が聖霊によって受胎されたとしても、その働きの段階はまったく同じように完成されたことであろう。もしそうなっていたならば、今回の働きの段階は女性ではなく男性によって完成されなければならず、それでも結局、働きはまったく同じように完成されることになる。両方の段階でなされる働きには意義がある。働きは繰り返されることはなく、お互いに矛盾することもない。その働きの際、イエスは神のひとり息子と呼ばれたが、それは男性であることを示している。それではなぜこの段階でひとり息子のことは言及されていないのか。それは、働きの必要性から、イエスの性とは異なる性へと変更せざるを得なかったためである。神に関しては性の区別はない。神の働きは神の望むようになされ、いかなる制限にも左右されることはなく、非常に自由であるが、各段階には実質的な意義がある。」

    この一説を読んだあと、心が突然光で満たされました。その通りだと私は考えました。神様は本来霊であって性別をおもちにならない。受肉した神様の性が男女どちらだろうと、神様の霊がまとわれている肉体である限り、それはキリストであり、神様ご自身である。神様が二度受肉なされたとき、それぞれの性は違っていたけれど、本質的にはやはり神様であり、働きをなさる方もやはり神様ご自身である。例えば、主イエスが以前に男性として現われて働きをなさったとき、そのお身体は神様を表現するものだった。今の終わりの日、主は女性の肉体でお戻りになって働きをなさっているけれど、その肉体も同じく神様を表現している。神様が異なる性で受肉なさるのは単に神様の働きが異なっているからで、外見上は違う肉に見えるけど、本質は同じ、神様ご自身の本質である。そして次に、自分自身のことと、自分がいかに混乱していたかを考えました。過去数年にわたり、兄弟姉妹がどう説教しようと、私はいつも彼らの言うことを拒んで受け入れませんでした。私はそこまで反抗的で、まさにパリサイ人のようであり、自分の観念と想像に頼って神様の働きを規定し、神様による終わりの日の救いをあやうく逃すところだったのです。

    私は次にこれらの神様の御言葉を読みました。「イエスの働きが終わりの日のこの段階の補完なしに行われていたら、人は永久にイエスだけが神のひとり子である、すなわち、神は一人の息子しか持たず、別の名前でその後に出て来る者はだれも神のひとり子ではなく、いわんや神自身でもないという観念を持ち続けるだろう。罪の贖いの捧げものとしての役割を果たす者、あるいは神のために権力を担う者、また、全人類を罪から救う者は神のひとり子であるという観念を人は持っている。現れる者が男性である限り、その人は神のひとり子、神の代理と見なすことができると信じている人々もいる。そして、イエスはヤーウェの息子、ひとり子であるという人々さえいる。これは人の作った深刻な観念ではないだろうか。今の段階の働きが最後の時代になされなかったならば、全人類は、神について陰に包まれてしまうだろう。もしそうなら、男は自分を女より高い地位にあるものと考え、女は堂々としていることが決してできないだろう。そうなれば、女性はだれも救いを受けないだろう。人々はいつも、神は男で、女を常にひどく嫌い、女には救いを与えないと信じている。もしそうなら、ヤーウェによって造られ、そして堕落したすべての女は決して救いを受ける機会が得られないというのは本当なのではないか。それなら、ヤーウェが女を造ったこと、すなわち、エバを造ったのは無意味だったのではないのか。そして女は永久に消滅するのではないだろうか。従って、終わりの日のこの段階の働きは全人類、女だけでなく全人類を救うことである。この働きは女のためだけでなく、すべての人類のためである。そうでないと考える者は、なおさら愚か者である。」

    神様の御言葉が暴いたのはまさに私が抱いていた観念でした。ひとり子は男性で、男性だけが権力の座につくことができ、ゆえに主は男性として戻られるに違いないと私は信じていました。神様の御言葉から、神様は私たちに深く根ざしている観念を取り払い、神様に関する誤った認識や誤解を一掃し、神様は性別をもたない霊であると私たちに気づかせるべく、今回は女性として受肉なさったのだと理解するようになりました。神様が再び男性として受肉なさったなら、私たちはますます神様を男性として、女性の神様ではなく男性の神様として規定しがちになるでしょう。事実を言えば、神様は全人類の神様であり、男性も女性もお救いになります。また私は、聖書の「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3:16)という聖句についてもより深く認識するようになりました。このひとり子は当時受肉なさった神様の肉体を指しており、神様が男性であることを意味しているわけではありません。私はかつて自分の観念と想像にしがみつき、ひとり子は男性であり、主イエスが女性のかたちでおいでになるなどあり得ないと信じていました。それで結局、お戻りになった主イエスを閉め出すことになったのです。私はこんなにも愚かで反抗的でした。そして神様が終わりの日に受肉なさって御言葉を語られていなかったら、誰ひとりこれらの奥義を突き止められなかっただろうと心の底から感じました。

    私は神様の御言葉を読み続け、読めば読むほど、自分の観念と想像にしたがって神様の働きを規定し、神様が男性として受肉なさらないなら、それはお戻りになった主ではないと信じるくらい、自分は盲目で無知だったと感じるようになりました。私はまた、妹と母が神様の新たな働きを受け入れるのを止めようとし、自分の誤解のせいで神様による終わりの日の救いを危うく失うところでした。私に福音を宣べ伝えるべく、兄弟姉妹を何度も何度も自宅へお送りくださったことについて、神様に感謝いたします。さもなければ、主イエスに抵抗したパリサイ人と同じになり、自分の観念と想像の中で生き、神様の新たな働きを拒んで受け入れず、最終的には神様の救いを永遠に失っていたでしょう。

    神様、感謝いたします。このように考察することで、夫と私は全能神の御国の福音を受け入れて神様のご家族に戻り、今は真の教会生活を送っています。兄弟姉妹は神様を讃えて歌い踊り、私たちは神様の御言葉を交わっています。堕落があればそれらを完全に打ち明け、真理を求めて解決できます。また私たちの集会には大きな喜びがあります。さらに、私はもはや、霊が乾いてしおれていたころのように不幸ではありません。その代わりに毎日神様の御言葉を読んで賛美歌を学び、私の霊は完全かつ本物の解放と自由を得ました。私を神様のご家族に連れ戻してくださったこと、古い生活を捨てる手助けをして光の道へと導いてくださったことについて、心から全能神に感謝いたします。

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    One Thought on “神様の性別の奥義を理解して、主の再臨をお迎えする(II)”

    • Hideo Satou より:

      受肉して再臨された神様の性別について、今まで特に考えた事がありませんでした。漠然と男性のイメージを持っていましたが、自分の観念と想像だった事に気が付きました。再臨の神様が、女性でも特に違和感は有りませんが、女性である意図は考察すべき事かもしれませんね。

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