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妨害をどう捉えるか

多くの兄弟姉妹誰もが、私達は主を信じており、主の御加護と愛により、すべてのことはスムーズに進むはずで、妨害や問題は私達に起きるはずがないと信じることがよくあります。しかし、現実には、私達の人生や働きの中には、あらゆる不快な物事があり、私達は妨害や苦難によく遭遇します。これらに遭遇することを避けることはできません。では、私達はこれらをどう捉えるべきでしょうか?この点に関して、小林さんと私は交流を行い、いくつかの知識を得ました。今から、それを皆さんと共有したいと思います。

小林さんは感慨深そうに、「福音の伝道を始めた頃、私は情熱と自信に満ち溢れていました。私は、『私達の罪を贖うために、主は十字架に磔にされ、私達に主のすべての愛を与えてくださった。ですから、もし私が主の偉大なる愛を目撃したら、多くの人々が必ず感動し、主に帰依するだろう』と考えました。しかし、福音を伝導する中で、多くの人が疑いの眼差しを私に向けるか、忙しさを言い訳にして私を避け、主の福音を説く機会を私にくれませんでした。中には、話を聞いてくれる人もいましたが、私が多くを語る前に、『仕事へ行かなければ。また来てください』と言いました。それよりは少しましで、私の交流を最後まで聞いてくれる人もいました。私が教会に来て、集会に参加するように言うと、彼らはその時は同意するのですが、集会の時間になると、誰も表れませんでした。1ヶ月も過ぎると、あちこち移動し、たくさん苦しんだ割には、ほとんど人を獲得できていませんでした。その時、私はとても落ち込み、打ちのめされてしまいました。私は、『とても一生懸命に福音を説いているのに、なぜ、私は多くの人を獲得することができなかったのだろう?』と自問しました。心の中で、強い悲しみとフラストレーションを感じました。

クリスチャン,試練と信仰,信仰心

私は困惑し、苦しむ中で、主に祈りを捧げ、心の中の痛みについて主にお話しすることしかできませんでした。この後、聖書が、苦しみを通して主イエス様は全人類の贖いの働きを完了されたことを記載されていることを思い出しました(ヘブル人への手紙2:10参照)。コリント人への第2の手紙第4章7~9節には次のように記載されています。『しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。』そうです。主は私達の苦しみの中で私達を導いてくださっています。主が私達の中にいなければ、陸の上の船同様、私達は脆く、一撃に耐えられず、ちょっとしたことで打ち負かされてしまうかも知れません。しかし、主が私達の中にいれば、私達の信仰は揺るぎなく、どのような大きな妨害や失敗があろうと、簡単に打ち負かされることはありません。これらのことを悟り、私は、『主はパワフルで、既にあらゆる苦難を打ち負かしてこられた。従って、主にできないことはない。私は主に頼り、福音を説き続けよう』と思いました。それからも、福音を説きに出かけると、未だに数多くの困難と妨害に会います。しかし、主が内側から私を導いてくださっていることを考えると、どのような困難であろうとそれらに立ち向かっていこうと思います。この経験を通し、これらの妨害により、神様に頼ることを学ぶことができ、神様との関係が一層近いものになったと、はっとすることがよくあります」と言いました。

私はこのトピックの話を続け、「その通りです。実際、妨害や失敗が私達に起きるように許されたのも、神様の御心です。しかし、神様の御心を理解していないと、私達は、『なぜこのような苦難や妨害に遭遇したのだろう?』と、たいてい不平を言います。実際、私達はこれらに遭遇する理由や、これらは悪魔サタンからの攻撃であるか、神様の御痕跡などと聞く必要などありません。重要なことは、これらにどのような姿勢で対処するか、そこから何を学んだかということです」と返しました。

小林さんは「あなたの言葉を聞いて、モーゼを思い出しました。神様がモーゼを使ってイスラエル人をエジプトから出国させる前、彼は40年間も荒野の中に1人で暮らしていました。私達の現在の寿命から判断するに、彼は人生の半分を困難と妨害の中で過ごしたと言えるでしょう。荒野の中で40年間も1人で暮らすことは、私達にとって、本当に生きるか死ぬかの試練です。信仰がなければ、私達は崩れてしまうでしょう。しかし、この苦難に直面しても、モーゼは神様に祈り、神様に頼ることにより、野獣がはびこる無人の荒野の中で40年間も暮らすことができました。モーゼが40年に及ぶ苦難という試練を受けた後、彼の中にあった気性の荒さや本来の性質はすべて取り除かれていました。彼はもはや石で人を殴ることはなく、彼の人間性は成熟し、安定したものになりました。これらは、彼がこの苦難を経験した後に訪れた変化、そして進歩でした。最後に、神様は、イスラエルの民をエジプトから出国させ、ファラオによる酷い扱いから彼らを救うという、重要な使命を彼にお任せになりました」と言いました。

私は、「ふーむ。その話は、私に聖書の中の次の聖句を思い出させます。『わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。』(ヤコブの手紙 1:2-4)。実際、妨害や苦難を経験することで、私達は傲慢さが抑えられ、謙虚で辛抱強くあること、神様に頼ること、神様を最も偉大な存在として称賛することを学びます。さらに、これらの経験の後、私達の人生はより豊かで完璧なものになります。

10年以上前、私は教会で働き始めたばかりでした。私は、自分には人に訴える力と才能があるため、自分自身の努力に頼り物事を行おうと考えていました。私は福音の説教回数と確立すべき教会数を計画しました。何をするにしても、自分がリーダーシップを取ると考えていました。私は同僚に相談することはほとんどなく、常に重大な発言権を持っていました。しかし、私だけの意思により神様への御奉仕を行っていると、同僚が私と離れ、私達は同じ心でいないことが分かりました。また、兄弟姉妹が私の命令に従わなくなりました。その結果、教会の働きを進展させることはとても困難でした。数多くの失敗と妨害を経験した後、ようやく、私は傲慢で、常に他者に指示し、他者に命じたがっていたことに気が付きました。私がしたことは教会にとても有害で、そこから利益を得るものは誰もいませんでした。そこで、私は神様に祈り、悔い改めました。私は自分自身を謙虚にしたいと感じ、教会の働きを行うときは、同僚ともっと話し合い、兄弟姉妹の提案に進んで耳を傾けるようにしました。私の態度が変わったため、彼らも変わり、私と進んで協調するようになりました。一方で、働きもいくつもの成果を達成し、神様の御祝福を得ました」と答えました。

私の言葉を受けて、小林さんは次のように言いました。「妨害と苦難は、実際、霊的人生の成長に必要なものです。妨害や失敗に苦しんだ後は、妨害や失敗に苦しんだことがないときと比べて、より強固に立ち向かうことができます。これらに苦しんだ後、私達は理性と人間性を持ち、神様を心から信じ、従うようになります。従って、妨害があるとき、私達はこれを回避したり、不平を言ったり、なぜこのような苦難に遭遇するのかの理由を突き止めようとする必要はありません。私達がすべきことは、神様の御前に来て祈り、神様の御心を求めることです。なぜなら、神様はこれらの苦難を打ち負かせるよう、私達を導いてくださるのですから。主イエス様も次のように仰っています。『これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている』(ヨハネによる福音書 16:33)」

「あなたの言葉を聞いて、私の心は大いに照らされています。そうです!苦難や妨害はよく起こるものですが、神様を私達の支えそして岩とするならば、苦しみや弱さがあったとしても、心の中は平和と喜びを感じます。私達クリスチャンは、私達が直面した妨害や苦難について長い目で見るべきで、瞬間的な妨害により打ち負かされ、前進を止めるべきではありません。主は私達の道であり指針です。私達が主に頼る限り、あらゆる苦難や妨害に打ち勝つことができます」私は確信を持って言いました。

「その通りです。今日の私達の交流をお導きくださった神様に感謝します。分かち合いはこれで終わりにしましょう」小林さんは言いました。

「そうですね。また次回お話しましょう!」

「さようなら」

「またお会いしましょう」

リサ(米国)

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