真の悔い改めとは何か

    2020年 10月 03日

    イエスは言われました。「悔い改めよ、天国は近づいた。」(マタイによる福音書4:17)では、真の悔い改めとは何か。多くの人は主に祈って罪を認め、主の御言葉によって寛容し、へりくだり、忍耐し、苦しみを受けて十字架を背負い、多く福音を伝え、良い行いがたくさんあれば、これは真の悔い改めだと思っています。しかし、事実は本当にこのようなものでしょうか。

    真の悔い改めとは何か

    良い行いは真の悔い改めを表すのか

    主に従ってから、確かに私たちの行いの変化は少しあり、へりくだり、寛容し、忍耐し、多くを放棄し、自らを費やし、福音を伝えて主を証しすることができました。しかし、否認できないのは、私たちは常に嘘をつき、欺き、金銭を追い求め、邪悪を崇め、傲慢で横柄、利己的で貪欲なサタン的性質の中に生きています。神様が私たちの家族を平安で、すべての事において順調であるように祝福してくださるとき、私たちの心の中には神様に感謝し、賛美します。仕事の不調、結婚の失敗、生活の貧しさに臨むとき、私たちは神様に不平を言い、祈った後に神様の祝福を感じない時に、私たちは神様を否認し、神様に背くさえできます。主が私たちに自分を愛するように他人を愛し、人を許し、忍耐するように求められているが、自分の大きな利益に及ばない時に、しぶしぶ実行できますが、自分の大きな利益を失うことに直面する時に、私たちは自分を制御できずに、利益を奪い、他人を傷つけ、外側の良い行いさえ実行できません。自分は主を信じる前に、家族との関係がとても悪くて、よく怒り出し、 家族と喧嘩していました。主を信じた後、私は主が私たちに人を愛するように求められていることを知ってから、主の御言葉によって、寛容し、忍耐し、それから聖書を読み、祈り、集会し、主のために働き始めます。外側から見れば、主を信じる前と異なりますが、実生活の中で、あらゆることにおいて、家族が自分の言うことを聞くように求め、家族が聞かない時に、私は怒ってしまいます。その後、私は自分の以前の行いは皆抑制していて、本当に主の御言葉を実行できたのではないと気づきました。私たちは罪を犯した後に、主の御前で罪を告白し、悔い改めるが、後にはまた罪を犯してしまうのです。もし良い行いがあることで真の悔い改めを表すことができるなら、私たちは再び罪の中で生きることはないと証明できるが、なぜ私たちはまた常に罪を犯して神様に抵抗しているのですか。なぜまた昼間に罪を犯し、夜になると告白する循環の生活を送っているのですか。ここから分かったのは、規則に従い、外側で少しの良い行いがあり、行動では少しの変化があるのは、真の悔い改めを表すことではありません。パリサイ人、律法学者、祭司のように、彼らの外見は敬虔で、律法を暗記し、年じゅう聖書を読み、説教し、福音を伝え、常に神様に捧げものを捧げ、自分の過ちを認め、私たちから見れば、彼らは最も神様に称賛されると思っているが、なぜ彼らは切望していたメシアを生きたままで十字架につけたのですか。これは何を証明していますか。外側の良い行いがあって、外側の規則だけに従うのは、罪を犯さず、神様に抵抗しないことを表すことがではなく、私たちは真摯に悔い改めていなければ、また罪を犯すことを証明しています。主イエスは言われました。「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。」(ヨハネによる福音書8:34−35)主の御言葉に基づき、私たちは自分の罪を認め、外側では少しの行いがあるだけで、真の悔い改めの効果に達していないので、天国に入ることができません。

    真の悔い改めとは何か

    「ヨハネの黙示録」22章14節にこう書かれています。「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。」また「マタイによる福音書」3章8節にこう書かれています。「だから、悔改めにふさわしい実を結べ。」「レビ記」11章45節にこう書かれています。「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。」神様は聖なる者であり、人の罪を憎み、そのため、私たちは真の悔い改めの基準は、罪深い性質が変化し、再び罪を犯さず、悪を行って神様に抵抗することもなく、つまり私たちの内の利己的、欺瞞的、高慢的な堕落した性質が清められ変化し、生まれ変わるに達することであるのを確定できます。どんな環境に臨んでも、私たちは神様に従順になり、もはや罪を犯して神様に抵抗せず、いくらサタンにどう誘惑されても、私たちはサタンの策略を見破って証しに立ち、悔い改める態度と現れがあり、これこそ本当に悔い改める人であり、天国に入る資格があります。

    聖書に記載されたダビデのように、最初彼はウリヤの妻をわがものとして、淫乱の罪を犯してしまい、神様の懲罰が彼に臨み、ダビデは自分の行いが神様に背いたことを知り、神様に祈り自分の罪を認め、自ら進んで神様の懲罰を受け入れ、従順になりました。ダビデは自分の行いを後悔し、この事を思い出す度に苦しくて涙を流し、まさに「詩篇」6章6節に「わたしは嘆きによって疲れ、夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした。」と記載されている通り、ダビデはどれほど後悔したことでしょうか。ダビデが晩年の時、寒く感じて、大臣たちは美しい少女を彼の懐に送っても、彼は触らなく、これはダビデの真の悔い改めの現れです。もし私たちは自分が悔い改めたと言った後の行いが、古い自我の様で、依然として罪を犯しては告白するなら、悔い改めとは言えません。なぜなら、悔い改めは人が自分のサタンに堕落させられた真相に対して、本当の認識と憎しみを持ち、本当の変化に達し、もはや神様に抵抗せず、神様に逆らわないことを含み、これこそ真の悔い改めです。

    どのようにして真の悔い改めに達すことができるのか

    私たちは真の悔い改めに達したいなら、また神様の進んだ一段階の救いの働きを受け入れる必要があります。主イエスはこう預言されました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12−13)「それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。」(ヨハネによる福音書16:8)「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:48)また聖書のほかの預言にこう書かれています。「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙4:17)ここから分かるのは、終わりの日に、神様はまた来られて一段階の神様の家から始まる裁きをなさり、言葉を語り、私たちが理解していないすべての真理を語り、これによって私たちの内の罪を裁き、清めるのです。私たちは神様の裁きの言葉を受け入れた後に、自分のサタン的性質を本当に認識し、憎み、真の悔い改めに達し、神様に神様の国に導き入れられます。そのため、私たちは堕落した性質から解放され、真の悔い改めに達したいなら、終わりの日に神様がなさった裁きの働きを受け入れるべきです。裁きの中で清められる人こそ真摯に悔い改める人なのです。

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