勝利者であるための基準とは

    2019年 06月 11日

    【編集者メモ】主イエスの御名を守り続け、一生懸命働き、主のためにすべてを捨てて自分自身を費やし、迫害や苦難のさなかに退くことがなければ、勝利者になれると多くのクリスチャンは信じています。しかし、この視点は正しいでしょうか。聖書に記された勝利者とは何を指しているのでしょうか。勝利者であるための基準とは何でしょうか。

    勝利者という言葉を聞くと、私たちはヨハネの黙示録に記された預言を思い浮かべます。

    「なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた」(黙示録14:1)

    「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」(黙示録7:14)

    この聖書で預言された十四万四千という数字は、神様が作ろうと望まれる勝利者を示しています。彼らは大きな患難のさなかに証しを行ない、神様に認められて天の国へ入る資格がある人たちです。勝利者になることは、主を信じる人全員が切望することであり、私たちが探し求める目標でもあります。多くの兄弟姉妹はこのように信じています。「私たちは何年も主に従い、そのあいだに苦労して働き、いろいろなことをあきらめて、自分自身を費やし、福音を説き、教会を牧してきた。そしてそのあいだずっと、世間の人々による嘲りや中傷、それに親族からの誤解に苦しんできた。また自国の政府に迫害され逮捕されても、私たちは決して退かない。このようにして最後まで主に従う限り、私たちは勝利者になるだろう」。

    勝利者であるための基準とは
    事実、苦難を甘受する私たちの信仰と意志は素晴らしいものですが、「主の御名を守り続け、すべてを捨て、自分自身を費やし、主のために一生懸命働けば、私たちは最後には勝利者になる」という視点は、私たちの理解に照らして本当に正しいでしょうか。この疑問に答えるには、神様の御言葉が述べていることに目を向けなければなりません。黙示録にはこう預言されています。

    「彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった」(黙示録14:4-5)

    「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」(黙示録7:14-5)

    神様の御言葉はこう述べています。

    「神が勝利者と呼ぶ者は、サタンの影響下に置かれ、サタンに包囲された時、つまり闇の軍勢の中にいる時でも、神の証しに立ち、神への確信と献身を維持できる者である。何があっても、あなたが依然として純真な心と神に対する真実の愛を維持できるのであれば、それは、あなたが神の前で証しに立っているということであり、それは神が言うところの勝利者となることである。……災害の前に完全にされる者たちは神に従順である。彼らはキリストに拠り頼んで生き、キリストを証しし、キリストを崇める。彼らは勝利した男児たちであり、キリストの良き兵士たちである。」

    これらの預言と神様の御言葉から、真の勝利者は嘘をつかず、心に裏切りを抱かず、堕落した性質が清められた人だということがわかります。さらに、彼らは子羊の足跡をぴったりと追い、真理を理解し神様を知る人でもあります。キリストが何とおっしゃろうと、またどのように働かれようと、彼らはキリストを追いキリストに従い、神様を讃えてあらゆることにおいて神様への証しをします。また彼らの神様への忠実は絶対にして完全です。サタンが人々を容赦なく迫害し、捕らえるという恐るべき状況に直面しても、彼らは真理を実践に移し、神様の被造物として本分を尽くし、死に至るまで神様に従い続けることができ、美しく完壁な神様への証しをします。これらの基準を満たすことでのみ、言葉の真の意味での勝利者になれます。それは単に、苦労して働き、主のためにいろいろなことをあきらめて自分自身を費やす人、迫害や患難においても退かない人を指しているだけではありません。

    ここで私たち自身に目を向けてみましょう。私たちは何年も主に従い、そのあいだに多くのことをあきらめて自分自身を費やし、主のために苦しみ代価を払ってきましたが、いまだに自分自身の堕落した性質から逃れておらず、清められてもいないことは否定できません。例えば、主のために骨を折って働きながら、しばしば罪を犯し、神様に従わず抵抗することがあります。主の御言葉を実践することに注意を払わず、自分自身の思いつきや欲望に従って物事を行ないます。名声や富や地位をむやみに欲しがり、兄弟姉妹が自分を尊敬して見上げてくれるようにと自分自身を讃えて証しを行ない、信者たちを自分の前に連れてくることもあります。また他人と交わるとき、自分の個人的な利益を守るために嘘をついたり騙したりすることを止められず、自分の名声や富や地位が関わるときには、兄弟姉妹を妬んだりたくらみを仕掛けたりすることさえできてしまいます。私たちが働いたり苦しんだりするのは神様を愛し満足していただくためではなく、栄誉と報いを得るためなので、いくらかの働きを行ない、いくらかの苦難を耐えたあと、自分が先輩であることを誇示し、自分勝手にもその見返りとして天の国での分け前を神様に求めます。神様の試練が降りかかるとき、私たちは神様を誤解して責め、裏切りさえします。また誰かが終わりの日における私たちのための神様の働きを証しするとき、自分の中に観念が生じ、神様の働きを軽率に評価して非難することがあります。私たちは今なお頻繁に罪を犯し、自分の罪深い本性に操られ支配されることがあり、神様に抵抗して裏切ることもあります。変化しておらず、また清められてもいないこのような人間が、どうして勝利者と呼ばれることがありえるのでしょうか。

    すると、「自分の振る舞いを考えると、私たちが勝利者になる基準を満たしていないのは本当だ。では勝利者になるためには一体何をするべきなのか」と尋ねる人がいるかもしれません。聖書には、こう記されています。

    「わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する」(ゼカリヤ書13:9)
    またペテロの第一の手紙四章十七節はこう述べています。

    「さばきが神の家から始められる時がきた」

    さらに神様の御言葉はこう述べています。

    「わたしは以前、東方から勝利者たちを獲得する、彼らは大きな苦難のただ中からやって来ると言ったことがある。この言葉の意味は何だろうか。それは、このような神のものとされた人たちは、裁きと刑罰、取り扱いと刈り込み、そしてあらゆる種類の精錬を経た後に、ただ真に従順だったということを意味する。そのような人々の信仰は漠然としておらず、抽象的でもなく、本物である。彼らはしるしや不思議、そして奇跡も見たことがない。彼らは難解な文字や教義あるいは深遠な洞察について話さない。その代わり、彼らには実在性さらに神の言葉、そして神の実在についての本物の認識がある。」

    神様の御言葉から、真の勝利者は神様の裁きと刑罰に加え、あらゆる種類の試練や精錬に耐えた人、そして神様についていくらかの認識を有している人であることがわかります。そうした人はまた自分自身の堕落した本性についてもいくらかの認識があり、真の服従に到達し、いかなる試練や患難が降りかかろうとも、神様に従いその御言葉による裁きと刑罰を受け入れることができ、最終的に彼らのサタン的な堕落した性質は変化し清められます。サタンの誘惑に遭ったとき、彼らは神様の証しをし、サタンの包囲に打ち勝ち、その影響から自由になることができます。もはや自分の堕落した性質によって生きるのではなく、その行動と振る舞いはすべて神様の御言葉に基づいており、神様の御言葉の現実を生きます。このような人だけが真の勝利者です。彼らが神様の働きを経験すると、傲慢、自惚れ、利己心、下劣さ、嘘や欺瞞といった自分のサタン的な堕落した本性について徐々に認識を得て、サタンによって自分が芯まで堕落させられてきたこと、いつでも神様に抵抗し神様を裏切ってしまう可能性があることの真理を認識します。また自分が完全にサタンの姿で生きていること、神様の御前で生きる価値がないことを認識します。それと同時に、神様の性質はいかなる背きも許さないことをよく理解し、そのため神様を畏れる心を育み、神様に従いその御言葉によって生きることができるようになります。さらに、彼らは真理を理解し神様を知っているので、悪しき物事についての識別力を持つようになり、サタンの計略を見破れると同時に、サタンのいかなる誘惑に遭遇しても、神様の証しをします。彼らは神様を真に愛し、従い、畏れる人になり、そのサタン的な堕落した性質はすっかり清められ、変化し、彼らは完全に神様のものになります。そうした人たちだけが、勝利者になる基準を満たす人です。それはまさに、聖書に記録されたヨブと同じです。多数の羊と牛だけでなく巨大な富をも失わせる、全身を腫れ物で覆わせる、友人に嫌がらせをさせる、あるいは妻を通じてその高潔さを攻撃させるなど、サタンがヨブを苦しめるためにいかなる残酷な手段を用いようと、ヨブはサタンに屈服することも、また神様に対する不満を一言たりとも漏らすこともなく、代わりにこう言いました。

    「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)

    「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(ヨブ記2:10)

    ヨブはこれらの試練に直面しても神様の証しをし、神様を畏れ悪を避けるという神様の道に従うことができました。よって、苦難と試練から立ち上がった勝利者だったのです。もう一つの例としてペテロが挙げられます。彼は生涯を通じて主イエスに従い、イエスを自分の模範とし、神様の至上の愛を追い求め、神様のために逆さ十字架にかけられながらも、死ぬまで神様に従順であり、かくして完全かつ美しい証しをしました。ペテロはまた、苦難を生き抜いた真の勝利者でもあり、神様によって完全にされた最初の果実、神様の国に入って永遠の命を得た人でもあるのです。

    黙示録ではこうも預言されています。

    「わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう」(黙示録3:11-12)

    「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある」(黙示録2:17)

    「御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」(黙示録7:17)

    これらの聖句から、勝利者の集団を完全にすることは、主イエスがそれを行なうために再び来られた働きだということが簡単にわかります。よって、私たちがこれらの勝利者の一人になりたければ、主の第二の到来を受け入れ、神様の足跡に従い、神様の御言葉による裁きと刑罰の働きを経験しなければなりません。私たちを清め救う働きをなさるために、神様はその御言葉を自らお語りになるからです。神様のお声に耳を傾ける賢い乙女となることができれば、私たちは子羊の婚姻の宴に出席して、神様から真理といのちを得られます。そして最後には、終わりの日の神様の働きを経験することになるので、神様についての真の認識を持つだけでなく、自分の堕落した性質も、度合いは異なるものの、清められます。その時はじめて、私たちは本当の意味で、大いなる苦難を乗り越えた勝利者の集団となるのです。

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