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神の御言葉は本当に聖書以外には存在しないのでしょうか(II)

彼が交流した後、私はびっくりしてこう思いました:「長年に渡って主を信仰してきたけど、こんな説教は一度も聞いたことがないわ。彼の交流は合理的だし、実情をとらえているわ。彼はどうやってこんなに多くのことを理解しているのかしら?」

彼は私の心を悟ったかのように話し続けました、「私は神の御言葉を読んでいますから、たくさん理解して、こういった知識を得ることができているんです。神の御言葉がその奥義を明らかにしてくださらなかったら、誰も神の御言葉を理解できないでしょう」。そして、彼は神の御言葉のこの段落を読んでくれました、「イエスは当時、ユダヤ人と自分に従う全員を、自身における聖霊の働きにしたがって導いた。イエスは聖書を自身の行為の基礎とせず、自分の働きにしたがって語った。イエスは聖書の記述を気に留めることも、自分に付き従う人々を導く道を聖書に求めることもしなかった。イエスは働きを始めた当初から悔い改めの道を広めたが、その言葉は旧約の預言の中で一切触れられていないものだった。イエスは聖書にしたがって行動しなかっただけでなく、新たな道を導き、新たな働きを行なった。イエスは教えを説く際に、一度も聖書を参照していない。律法の時代、イエスのように奇跡を行ない、病を癒し、悪霊を祓える者は一人もいなかった。イエスの働き、教え、そしてイエスの言葉の権威と力も、律法の時代の誰よりも勝っていた。イエスはひたすら自分の新たな働きを行ない、多くの人が聖書を用いてイエスを断罪しても、さらには旧約を用いてイエスを十字架にかけても、イエスの働きは旧約を超えていた。そうでなければ、なぜ人々はイエスを十字架にかけたのか。それは、イエスの教え、あるいは病を癒して悪霊を祓うイエスの能力について、旧約に何の記述もなかったからではないのか。……人々にとって、イエスの働きには根拠がなく、旧約の記述に反することが数多くあるかのように思われた。これは人の過ちではなかったか。神の働きに教義を当てはめる必要があるのか。また、神の働きは預言者たちの預言に合致しなければならないのか。結局のところ、神と聖書のどちらが偉大なのか。なぜ神が聖書にしたがって働きを行なわなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きを行なうことができないのか。なぜイエスと弟子たちは安息日を守らなかったのか。仮にイエスが安息日を守り、旧約の戒めにしたがって実践するつもりだったなら、なぜ到来後に安息日を守らず、その代わりに足を洗い、頭を覆い、パンを裂き、ぶどう酒を飲んだのか。これらはみな、旧約の戒めにないのではないか。イエスが旧約を尊重していたのなら、なぜそれらの教義を破ったのか。神と聖書のどちらが先に来たか、あなたは知るべきだ。彼は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのではないか」。

そうです! 神がどのように働かれるかは神のご自由なのです。神は聖書以外の働きをする権利をお持ちで、神の働きを聖書に制限する権利など私たちにないのです。こう考えはしたものの、私は盲目に聖書を崇拝していたため、すぐには自分の観念を捨てることはできませんでした。後に、兄弟姉妹たちは、神が終わりの日に新たな働きをするために再臨されるということに関して記述した聖句を根気強くたくさん検索し、それらをまとめて終わりの日の全能神の裁きの働きを証言してくれました。彼らの説教を聞いて、私はそれが合理的であると思った上に、心の中で彼らの交流内容に納得していたのですが、自分が間違っていたことは認めたくなかったので、「ひょっとしたら彼らが読んでいる聖書は私が読んでいる聖書とは違うんじゃないかしら?」と考えたりしていました。

私は帰宅すると、急いで聖書のページをぱらぱらとめくり、彼らが交流していた聖句を注意して読みました。私は彼らが証言した裁きの働きは聖書に記された預言を完全に成就していたことを知りました。私は思わずショックを受けて「全能神が主の再臨だなんてことがあり得るのかしら?」と考えました。私はこう考えた時、急いで跪いて主に祈りました、「主よ! 今日私は全能神教会から来た兄弟姉妹の交流を聞きました。私はそれがとても啓蒙的で、私が長年に渡って聖書を読んで理解していたものではないと感じました。全能神の御言葉は真理で間違いありません。主よ! 私は依然として全能神があなたの再臨であると確信しきることができません。どうか私に啓示と導きをお与えください。私はこのまま調査を続けていきます」。

聖書から外れるものは全て異端でしょうか?

2日目、私の友人と私は一緒に全能神教会に足を運びました。兄弟姉妹たちは私たちを温かく迎え入れたくれると、『聖書の奥義を解く』と題した映画を見せてくれました。主人公は私と同じ考えを持っていたので、私はとても興味を持ちました。彼女も、「聖書以外に神の御言葉は存在しない、聖書に書かれていないものは全てが異端である」と考えていたのです。この映画の中で私の心を特に動かしたのは、全能神教会の兄弟がこの観点について彼女に話した内容でした。彼はこう言ったのです。「聖書に詳しい人たちには有名なことですが、聖書を編集する過程において、編集者たちの論争や不注意のため、預言者が伝達した一部分の御言葉は旧約聖書に収録されていません。これは公認の事実です。可能性として聖書以外にも神様の働きと言葉はあります。では、収録されていない預言は御言葉ではないと言えますか? そして新約聖書では御言葉のすべてを収録できたのですか? 聖書に言われたとおり、『イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う』(ヨハネによる福音書21章25節)。これは主イエスの働きと言葉が新約聖書以外にもあるということです。だから、『聖書以外に神様の働き、言葉はない』とは事実に合いません。兄弟姉妹、さらに新約聖書、旧約聖書はともに神様の一段階の働きが終わった、その後に人間が記したもの。最初には旧約聖書しかなく、主イエスの働きと言葉は旧約聖書にはありません。聖書を超えると異端だと言うなら、主イエスもまた異端だということになる。この事実から『聖書以外には神様の働きと言葉はなく聖書を超えると異端だ』という言い方には何ひとつ根拠がないことが分かります」。

私は観賞しながらこう考えました:「その通りだわ。旧約聖書にヤーウェ神の御言葉全ては記録されていないのよ。だって、ヤーウェ神は何千年にも渡って地上で人類の生活を導かれ、ヤーウェ神が預言者たちを通じて宣べ伝えられた御言葉は旧約聖書に記されたものより遥かに多かったからよ。そして、主イエス様は3年半に渡って宣教されている訳だから、聖書に記述されている御言葉だけを仰せられていたはずがないわ。だから、私は結論を急いだりしないで、全能神の働きを注意して扱うべきだわ」。こうして、私は次の展開を見るのが待ちきれなくなりました。

「私たちは以前から聖書を読むことに慣れてはいますが、聖書の実相を明確に理解できていませんでした。しかし、今日、全能神のこの御言葉がその全てを明らかにしてくださっています。『聖書の実情を知る人はいない。つまり、聖書は神の働きに関する歴史的記録に過ぎず、神による以前の二段階の働きについての証しであること、また聖書は神の働きの目的について何も教えていないことを、誰も知らないのである。聖書を読んだことがある人はみな、そこには律法の時代と恵みの時代における二段階の神の働きが記録されていることを知っている。旧約はイスラエルの歴史と、創造から律法の時代の終わりに至るヤーウェの働きを記録している。また新約では、地上におけるイエスの働きが四福音書に記されており、それとともにパウロの働きも記録されている。これらは歴史的記録ではないのか。過去の物事を今日に持ち込めば、それは歴史となり、いかに真実かつ現実であろうとも、やはり歴史である。そして、歴史は現在を記述することができない。神は歴史を振り返らないからである。ゆえに、聖書を理解するだけで、神が今日行なおうとしている働きについて何も理解しないのなら、また、神を信じていながら聖霊の働きを求めないのなら、あなたは神を求めることが何を意味しているのかわかっていない。イスラエルの歴史を学ぶために、神の天地創造の歴史を研究するために聖書を読むのなら、あなたは神を信じていない。しかし今日、あなたは神を信じていのちを追い求めているのだから、また神の認識を追い求め、死んだ文字や教義、あるいは歴史の理解を追い求めているのではないのだから、今日の神の旨を求め、聖霊の働きの方向を探さなければならない。もしもあなたが考古学者なら、聖書を読んでもよいだろう。しかし、あなたは考古学者ではなく、神を信じる者の一人なのだから、今日の神の旨を探し求めるのが最善である』。兄弟姉妹の皆さん、全能神の御言葉より、聖書は神が過去になされた働きの歴史的記録であり、人間を救うことはできないということが分かります。聖書を神と比較することは全くできないのです。神はいのちの生ける水の泉であり、神の御言葉には終わりがなく、その流れが止まることは決してありません。しかし、聖書の記録は非常に限られています。これは誰も否定できない事実です。兄弟姉妹の皆さん、神は常に新しく、古いことは決してありません。神は各時代において、新たな働きをされ、新たな御言葉を仰せられます。主イエス様は恵みの時代に新たな働きをされ、新たな御言葉を仰せられました。しかし、当時のユダヤ教の祭司とパリサイ人は旧約聖書の内容に固執し、主イエス様の働きを拒み、非難しただけでなく、主を十字架に釘付けにすらしてしまい、重大な罪を犯しました。今現在、全能神、すなわち終わりの日のキリストは人類を救い清めるための真理を全て表されましたが、それらは聖書に全く記されていないものです。それらは記録されていないので、聖書は終わりの日の神の働きと神の御言葉全てを示すことはできないのです。兄弟姉妹の皆さん、いつまでも聖書に固執していてはいけません。私たちは神の現在の御心と聖霊の働きを探求する必要があります。それのみが、神の御心に即しているのです」。

そして、全能神の御言葉と兄弟の交流に従い、私は注意深くこのように熟考しました:「神の働きは常に前に進んでいるんだわ。神の働きと御言葉が旧約聖書の内容に制限されていて、神が恵みの時代に贖いの働きをされていなかったら、私たち人類は律法の下に生きて、律法を守れないことを理由に有罪となって、処刑されていたはずだわ。もしそうなっていたら、人類は今日まで発展してくることができなかったはずだわ。今の教会の状態を目前に、主が終わりの日に再臨して人類を裁き清める働きをされなかったら、私たちは罪の中に生きることを余儀なくされて、罪から脱却できなくなってしまうわ。体中が堕落した私たちに、来臨される主の御顔を見る資格なんてあるはずがないわ」。私は熟考すればするほど、心の中で増々啓発を受けた気分になり、以前はおかしな観点に固執していたものだと感じました。

観念を捨て、子羊の足跡を辿りました

映画を見た後、私の頭にはまだそのストーリーが残っていました。私が以前固執していた観点は全能神の御言葉によって覆されたのです。私は思いました。「神の御言葉はとても明確だわ。頑なに自分の観点に固執していたら、私も当時主イエス様に抵抗し、主を非難したパリサイ人と同じということにならないかしら? 私は神に忌嫌われ、退けられ、呪われてしまうわ!」こうして、私は全能神教会に頻繁に足を運んで探求して、調査する決意をし、全能神が主イエス様の再臨であると確信できれば、全能神を受け入れて、以前の教会にはもう行かないことにしました。

その後、彼らは、『小羊が開いた巻物』と題した本を私にくれました。全能神の御言葉は私たちの考え、誤った動機、そして傲慢さ、うぬぼれ、欺き、身勝手さ、そして卑劣さといった、私たちの堕落した性質を明らかにされるということを私は知りました。私はそれを読めば読むほど、神のみが人類の心の奥底を調べ、私たちの誤った動機と堕落の全てを暴露することがおできになるのだから、全能神の御言葉は聖霊、そして神から来るものであるということを増々認識しました。さらに、聖書の本質と奥義、神の三段階の働き、神への真の信仰、そしてどのような人が天国に入れるのか等、全能神は本当に多くの真理を表してくださっているのです。私は今まで主を信仰してきて、このような真理を一度も耳にしたことがありませんでした。これらは私を完全に目覚めさせてくださり、聖書に記されたこの御言葉を完全に成就しているのです、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。私は全能神の御言葉を読んで、全能神が主イエス様の再臨であると確信しました。私は生きている間に主の再臨をお迎えできるとは思っていなかったので、心がとても興奮しました。私は全身全霊をかけて全能神について行く決意をしました。

私は神が愛に満ちた心で私を助けるためにたくさんの兄弟姉妹たちを動かして、私が幸運にも神の働きを受け入れられるようにしてくださったことを感謝しました。私は全能神の御言葉を読み、僅か数か月の間に宗教界で10年かけて学んだことよりも多くのことを学びました。神の御言葉は正に生ける水の泉であり、常に絶えることなく私たちを備えくださっているということを私は知りました。振り返ると、私はむやみに牧師の言葉を信じ、自分の観念と想像まかせに神の御言葉を聖書の中だけに制限していました。私は完全に理知を欠いていたのです。私は神が私を救ってくださり、私の誤った観点を覆してくださったおかげで、主の再臨を逃さずに済んだことを感謝しています。神に感謝です! 全ての栄光、神にあれ! 終わり。

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