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第2の物語:大きな山、小川、強風、そして巨大な波

曲がりくねった小川があり、その小川は大きな山の麓へと流れ込んでいました。この山は小川の流れを遮っていたので、小川は「わたしを通してください。あなたが立ちふさがっているので、先へ進むことができません」と、か弱い小声で山に頼みました。すると山は、「どこへ行くのか」と尋ねました。小川は「自分の故郷を探しています」と答えました。山は「わかった。わたしを超えて流れてゆくがいい」と言いましたが、小川は弱く、幼かったので、そのような大きな山を越えて流れることなどできません。そうしたわけで、小川は引き続き大きな山の麓に流れ込むことしかできませんでした……

強風が吹き込み、砂や瓦礫を山がそびえる場所へと運んできました。強風は大声で「わたしを通せ」と怒鳴りました。すると山は、「どこへ行くのか」と尋ねました。強風が「山の向こう側へ行きたいのだ」と怒鳴り返したところ、山は「わかった。わたしの胴体を割って通れるのであれば、通ってよろしい」と答えました。強風はあちこちから吹き込みましたが、どれほど強く吹き込んでも山の胴体を割ることはできませんでした。そのうちに疲れてしまい、吹くのを止めて休んだのですが、山の反対側でそよかぜが吹き始め、そこにいる人たちを喜ばせました。それは人々に対する山からの挨拶だったのです……

海辺では、小波が岩だらけの岸に優しく打ち寄せていました。すると突然、大波が現れ、山の方へと押し寄せていきました。大波が「そこをどけ」と叫んだところ、山は「どこへ行くのか」と尋ねました。大波は止まることができず、「領地を拡大しているところだ。両腕を伸ばしたいんだ」と答えました。山は「わかった。わたしの頂を越えて通れるのであれば、道を譲ろう」と言いました。すると大波は少し下がってから、再び山へ向かって押し寄せました。しかしどれほど頑張っても、山の頂を越えることができません。大波は徐々に海へと退くことしかできませんでした……

小川は何千年にもわたって山の麓を優しく流れ続けました。山が指し示す方向をたどり、故郷に戻って大河と合流し、やがて海へと流れ込んだのです。小川は山の慈しみを受け、決して迷うことがありませんでした。小川と山は互いに頼り合い、強め合い、交流し合い、共存していました。

強風は数千年経っても相変わらず山に吹きつけていました。そして大きな渦を巻く砂を巻き込みながら、しばしば山を「訪れ」ました。山を脅かしたものの、その胴体を割ることはできませんでした。風と大きな山は互いに強め合い、頼り合い、交流し合い、共存していました。

大波もまた数千年にわたって休むことなく、激しい勢いで押し寄せ、絶えず領地を広げていました。何度も山へと押し寄せたものの、山はまったく不動のままでした。山は海を見守り、そのために海中の生物は増加し、繁栄しました。波と山は互いに強め合い、頼り合い、交流し合い、共存していました。

さて、物語はこれで終わりです。まず、この物語は何に関するものでしたか。最初に大きな山があり、小川、強風、そして巨大な波が登場しました。最初の部分では、小川と大きな山の間で何がありましたか。わたしが小川と大きな山について話すことを選んだのはなぜですか。(大きな山による慈しみのもと、小川は道に迷うことがありませんでした。互いに頼り合っていたのです。)山は小川を守っていたと言えますか、それとも妨害していたと言えますか。(守っていました。)しかし、小川を妨害してはいませんでしたか。山と小川は互いに見守り合っていました。山は小川を守りながら、同時に妨げてもいたのです。山が小川を守っていたので、小川は大河へと流れ込むことができましたが、同時に山は小川の流れを遮り、それによって洪水を引き起こして人々に災害をもたらすのを防いだのです。これが、この一節が言わんとしていたことではありませんか。小川を保護し、同時にその流れを妨げることで、山は人々の家を守ったのです。やがて小川は山の麓で大河と合流し、海へと流れ込みました。それは小川の存在を律する法則ではありませんか。小川が大河へと流れ込み、そして海へと流れ込めたのは何のおかげですか。それは山のおかげではなかったですか。小川は山の保護と障壁に頼っていました。では、それが要点ではないのですか。その中に、山の小川に対する重要性を見て取れますか。大きかろうと小さかろうと、すべての山を造ったことについて、神には計画があったでしょうか。(ありました。)これは短い一節に過ぎず、小川と大きな山に過ぎませんが、そこからわたしたちは、神がこれら二つのものを造ったことの価値と意義を理解することができます。また、それらを支配することにおける、神の知恵と目的も示しています。そうではありませんか。

この物語の次の部分は何に関するものでしたか。(強風と大きな山です。)風はよいものですか。(よいものです。)そうとは限りません。風が強すぎて災害を引き起こすことがあります。強風の中に立たせられたらどう感じますか。それはその強さ次第です。風力3、4程度であれば我慢できるでしょう。せいぜい目を開け続けるのが難しくなるだけです。しかし、風が強くなって暴風になったら、あなたは耐えられますか。耐えられないでしょう。したがって、風は常によいものである、あるいは常に悪いものである、と人々が言うのは間違っています。なぜなら、それは風の強さによるからです。さて、ここで大きな山はどのように機能していますか。風防として機能しているのではないですか。山は強風をどの程度まで弱めていますか。(そよ風にしています。)では、人間が暮らす環境の中で、大半の人が晒されているのは強風ですか、それともそよ風ですか。(そよ風です。)それは、神が山を造った目的の一つ、意図の一つではありませんか。風に吹かれた砂が激しく舞い上がり、それを防ぐものも、妨げるものもない環境の中で人間が生活したとすると、それはどのような生活ですか。砂や石が飛び交う土地など、人間には住めないのではありませんか。石が人に当たり、砂が人の目を見えなくするでしょう。人間が足元をすくわれたり、空中に飛ばされたりすることもあるでしょう。家は破壊され、様々な災害が起こるに違いありません。それでもなお、強風の存在に価値はありますか。わたしが、風は悪いと言ったので、人はそれに何の価値もないと感じるかもしれませんが、果たしてそうですか。そよ風に変われば価値があるのではないですか。湿度が高くむせかえるような天気のとき、人が一番必要とするのは何ですか。そよ風が優しく吹いて気分を爽快にし、頭をすっきりさせ、思考を研ぎ澄まし、精神状態を直して改善することが必要です。たとえば、あなたがたはいま、多くの人がいる風通しの悪い部屋に座っていますが、あなたがたに一番必要なものは何ですか。(そよ風です。)空気がよどんで汚れている場所に入ると、人間の思考は遅くなり、血行は悪くなり、頭脳の明晰度も落ちます。しかしながら、少しばかり空気を動かして循環させれば、空気が新鮮になって人の気分も変わります。小川や強風は災害を起こす可能性もありますが、山がそこにある限り、その危険を人間にとって有益な力に変えるはずです。そうではありませんか。

この物語の3番目の部分はどのような内容でしたか。(大きな山と大波の話でした。)そのとおり、大きな山と大波の話です。この一節の舞台は山の麓の海岸です。山、波しぶき、そして大波が登場します。この一節の中で、大きな山は大波にとってどのような存在ですか。(保護するものであり、障壁でもあります。)山は保護するものであり、かつ障壁です。大波を保護することで、海が消え去るのを防ぎ、その中の生物が増殖して繁栄できるようにします。障壁としての山は、海水が溢れて災害を引き起こし、人々の家を破損したり破壊したりするのを防いでいます。したがって、この大きな山は保護するものであり、障壁でもあると言えます。

このことは大きな山と小川、大きな山と強風、そして大きな山と大波の相互関係の意義を示しています。それらが互いに強め合い、妨げ合い、共存していることの意義です。神が造ったこれらのものは、規則と法則によってその存在を律せられています。では、あなたがたはこの物語の中で、神のどのような業を目の当たりにしましたか。神は万物を造って以来、それらを無視してきましたか。神は法則を設け、万物がどのように機能するかを計画したにもかかわらず、そのあとはそれらを無視しましたか。そのようなことがありましたか。(ありません。)それでは、どのようなことがあったのですか。神はいまだに支配しています。水、風、波を支配しているのです。神は、そうした物事が荒れ狂うことも、人々が暮らす家を破損したり破壊したりすることも許しません。そのおかげで、人は地上で生活し、増殖して繁栄することができるのです。つまり、神は万物を造ったとき、すでにそれらの生存法則を計画していました。神は一つひとつの物事を造ったとき、それが人間に資することを確認し、またそれを支配することで、人間を悩ませたり、災害をもたらしたりすることがないようにしたのです。神による管理がなかったとしたら、水は何の制限も受けずに流れるのではないでしょうか。風も制限を受けずに吹くのではないでしょうか。水と風は法則に従いますか。神がそれらを管理せず、それらを律する法則もなければ、風は吹き荒れ、水は何の制限も受けずに洪水を引き起こすでしょう。波が山より高かったとしたら、海は存在できるでしょうか。できないはずです。大きな山が波ほど高くなければ、海は存在しないでしょうし、大きな山はその価値と意義を失うに違いありません。

これら二つの物語の中に、あなたがたは神の知恵を見て取れますか。神は存在する一切のものを造り、それを支配しています。神はそのすべてを管理し、それらに施しを与え、また万物のあらゆる言動を見て吟味しています。それゆえ、神は人間生活のあらゆる部分をも見て吟味しているのです。したがって、神は一つひとつの物事の機能、本質、およびその生存法則から、そのいのちの意義、そして生存の価値に至るまで、自ら造ったあらゆる物事を、掌を指すかのように詳しく知っており、それはどれも完全に神の知るところとなっています。神は万物を造りましたが、それらを律する法則について研究する必要が神にはあると思いますか。神は人間の知識や科学を研究し、それらについて学んで理解する必要がありますか。(必要ありません。)人間のうち、神のように万物を理解できるほど、知識と学識を備えた人はいるでしょうか。いませんね。万物が生きて成長するか、その法則を真に理解している天文学者や生物学者がいるでしょうか。そのような人たちに、一つひとつの物事の存在価値を真に理解することができますか。(できません。)それは、万物が神によって造られたからであり、人間がどれほど多く、どれほど深くこの知識を研究したとしても、あるいはどれほど時間をかけてそれを知ろうと努力したとしても、神による万物創造の奥義や目的を推測することは決してできません。違いますか。さて、ここまでの議論から、あなたがたは「神は万物のいのちの源である」という言葉の真意を部分的に理解したと感じていますか。(感じています。)「神は万物のいのちの源である」というこの主題について述べると、多くの人は「神は真理であり、言葉を使ってわたしたちに施す」という別の言葉をすぐに思い浮かべ、この主題の意味についてそれ以上は何も考えないでしょう。中には、神が人間の生活に施し、日々の食べ物や飲み物、そして日常のあらゆる必需品を与えていることは、神が人間に施しているとはみなされないとすら感じる人もいるでしょう。一部の人はこのように感じているのではないですか。しかし、神の創造の意図は明らかではないですか。つまり、人が正常に存在して生きられるようにすることではないのですか。神は人が暮らす環境を維持し、人間が生き延びるのに必要なものを残らず与えます。さらに、神は万物を管理し、支配しています。こうしたことにより、人間は正常に生活し、繁栄して増殖することができるのです。神はこのようにして、すべての被造物と人間に施します。人間は、こうした物事を認識して理解する必要があるのではないでしょうか。「この主題は、真の神自身に関するわたしたちの認識からあまりにかけ離れているし、わたしたちはパンだけで生きるのではなく、神の言葉によって生きるのだから、こうしたことなど知りたくもない」と言う人もいるかもしれません。そうした認識は正しいですか。(正しくありません。)なぜ正しくないのですか。神が言ったことに関する認識があるだけで、神を完全に理解することができますか。神の働き、裁き、そして刑罰を受け入れるだけで、神を完全に理解することができますか。神の性質や権威のごく一部を知っているだけで、神を理解するには十分だと考えられますか。(考えられません。)神の業は万物の創造に始まり、現在も続いています。神の業が不明瞭だったことは一瞬たりともありません。神が人々の一団を選んで彼らに働きを行ない、彼らを救ったというだけで、神は存在していると信じ、他の何も神とは関係なく、神の権威、身分、あるいは業とも関係ないと信じるなら、その人は神を真に知っていると見なせますか。このいわゆる「神に関する認識」をもつ人は、一方的な理解しかしておらず、それによって神の業を人の一団に限定します。それは、神に関する真の認識ですか。このような認識を持つ人々は、神による万物の創造と支配を否定しているのではないですか。中にはこの点に関わろうとせず、「万物に対する神の支配を、わたしは見たことがない。その考えはあまりに自分とかけ離れていて、わざわざ理解しようとは思わない。神は望むことを何でも行なうが、それはわたしに無関係である。わたしは、自分が神によって救われ、完全にしてもらえるよう、神の導きと御言葉を受け入れるだけだ。他の何もわたしには関係ない。神が万物を造ったときに定めた規則や、万物と人間に施すために行なうことは、わたしと何の関係もない」などと思い込む人がいます。何という話でしょうか。これは反抗ではないですか。あなたがたの中に、このように認識している人はいますか。たとえそう言わなくとも、ここにいるあなたがたの大半がこのように考えていることを、わたしは知っています。このような型通りの人間は、自分の「霊的」観点からすべてを見ます。彼らは、神が語った言葉によって神を聖書に限定し、文字どおりの言葉の意味に限定しようとするばかりです。この種の人は神をさらに知ることを望まず、神が他の業を行なうことに注意を割くのを望みません。こうした考え方は子供じみたもので、同時に極めて宗教的です。こうした見方をする人は神を知ることができますか。こうした人が神を知るのはとてつもなく難しいでしょう。今日、わたしは二つの物語を話したわけですが、それぞれが異なる側面に触れています。それらを耳にしただけでは、いずれも難解だったり、多少抽象的だったりして、理解するのが難しいと感じているかもしれません。それを神の業や神自身と関連づけるのは難しいでしょう。しかし、神の業、そして神が万物や人間の中で行なったことはどれも、すべての人、神を知ろうとするすべての人が、明瞭かつ正確に知らなければならないものです。この認識は、神の真の存在に対する信仰を確固たるものにします。また、神の知恵と力、そして神が万物に施す方法についても、正確な認識をあなたにもたらします。さらにこの認識は、あなたが神の真の存在をはっきり知覚し、神の存在が架空のものでも伝説でもなく、漠然としたものでもなく、学説でもなく、ましてや一種の精神的な慰めでもなく、現実の存在であることを理解できるようにします。そのうえ、神が常にすべての被造物と人間に施してきたことを、人々に知らしめます。神は自身の方法で、神自身の律動にしたがってこれを行ないます。ゆえに、神の予定のもと、万物が自分に割り当てられた任務を行ない、自分の責任を果たし、自分の役割を果たせるのは、神が万物を造り、それらに法則を与えたからなのです。神の予定のもと、一つひとつの物事は人間のため、人間が暮らす空間と環境のため、それぞれの役割を果たします。仮に神がそのようにせず、人間がこのような生活環境をもっていなければ、人間が神を信じたり神に従ったりすることは不可能でしょう。それは単なる無駄話にしかならないはずです。違いますか。

先に述べた大きな山と小川の物語に再び目を向けましょう。この山の役目は何ですか。山には生物が繁殖しているので、その存在には固有の価値があり、同時に小川を妨げて自由に流れるのを防ぎ、人々に災害をもたらさないようにしています。そうではありませんか。山は独自の形で存在し、そこに住む無数の生物、つまり木々や草やその他の動植物が繁栄できるようにしています。山はまた小川が流れる方向を導き、水を集めて山の麓を自然に流れさせ、そこで小川は大河へと流れ込み、最終的に海へと到達できます。これらの法則は自然に生じるものではなく、創造の際、神が特に定めたものです。大きな山と強風の部分について言えば、山は強風も必要としています。山は、そこに棲む生物に風が心地よく吹きつけることを必要とする一方で、風が無闇に吹かないよう、強風の力を押さえつけています。ある点において、この法則は大きな山の義務を体現しています。それでは、山の義務に関するこの法則は、自然と生じたものでしょうか。(違います。)それは神によって定められたものです。この大きな山には義務があり、強風にも義務があります。今度は大きな山と巨大な波に目を向けましょう。山の存在がなかったとしたら、大波は自分で流れる方向を探し当てていたでしょうか。(そのようなことはありません。)水は洪水になるでしょう。山には山としての存在価値があり、海には海としての存在価値があります。しかし、両者が正常に共存でき、相互に干渉しない状況において、両者は相互に制限もします。大きな山は、海が洪水を起こさないように制限し、それによって人々の家を守ります。また、海を制限することで、海中に棲む生物を養うことができます。この光景は自然に生まれたものでしょうか。(違います。)これもまた神によって造られたものです。この光景から、神は万物を造ったとき、山がそびえる場所、小川が流れる場所、強風が吹き出す方角と吹き込む方角、巨大な波の高さを予め決めていたことがわかります。これらのすべてに神の意図と計画が込められており、それは神の業なのです。さて、万物に神の業が存在することを理解できましたか。(理解できました。)

これらの事柄を議論する目的は何ですか。神が万物をつくった法則を人に研究させるためですか。天文学や地理学への興味をかき立てるためですか。(違います。)それでは何ですか。その目的は、人々に神の業を理解させることです。人は神の業の中に、神は万物のいのちの源であるということを確かめられます。これを理解できれば、自分の心の中に神の居場所があり、神が唯一無二の神自身であり、天地と万物の創造主であることを、真に確信することができます。では、万物の法則と神の業を知ることは、あなたが神を理解するうえで有益ですか。(有益です。)どの程度有益ですか。まず何より、神の業を理解したとき、あなたは依然として天文学や地理学に関心がありますか。依然として猜疑心をもち、神が万物の創造主であることを疑いますか。依然として研究者の心をもち、神が万物の創造主であることを疑いますか。(疑いません。)神が万物の創造主であることを確信し、神の創造の法則を一部でも理解したとき、神が万物に施すことを、あなたは心の中で本当に信じますか。(信じます。)ここでいう「施す」には特定の意味がありますか、それとも具体的な状況を指すのに使われますか。「神が万物に施す」という言葉には、極めて広い意味と範囲があります。神は人々に、食べ物や飲み物を日々施すだけでなく、人間が必要とするあらゆるものを施しますが、その中には人に見える一切のものだけでなく、人に見えないものも含まれています。神は、人間に必要不可欠なこの生活環境を維持し、管理し、支配します。つまり、それぞれの季節で人間がどのような環境を必要としようとも、神はそれを用意してきたのです。神はまた、人間の生存に適したものになるよう、大気の状態や気温も管理しています。これらの物事を律する法則は、自然に生じたものでも不規則に生じたものでもありません。それらは神の支配と業の結果なのです。これらの法則の源、万物のいのちの源は神自身です。あなたが信じるかどうか、見えるかどうか、理解できるかどうかにかかわらず、これは立証された議論の余地のない事実なのです。

大部分の人々は聖書に含まれている神の言葉と働きしか信じていないことをわたしは知っています。神は少数の人々のために自身の業をあらわし、人々が神の存在価値を理解できるようにしました。また、神は人々に神の地位をいくらか認識させるとともに、神の存在の事実を確信させてきました。しかし、それよりさらに多い人間にとっては、神が万物を造り、万物を管理し、万物に施すという事実は、漠然としているか曖昧なように思えます。このような人は懐疑的な態度さえとります。彼らはこの態度のせいで、自然界の法則は自発的に形成されたものであるとか、自然の変化、移り変わり、現象、そして自然を律する法則は自然それ自体から発生したものであると、しつこく信じるようになります。人々は、神がどのようにして万物を創造し、支配しているかを心の中で知覚できず、また神が万物をどのように管理し、万物に施しているかを理解できません。人はこの前提に制限を受け、神が万物を創造し、支配し、万物に施していることを信じられません。信じる人でさえ、自分の信仰においては律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代に制限されます。つまり、神の業、および人間に対する神の施しは、ひとえに神の選民のためだと信じるのです。わたしはそれを見るのがとてつもなく嫌で、胸が強く痛みます。なぜなら、人間はたとえ神から与えられた物事を残らず享受していても、神の業や神から与えられた物事をすべて否定するからです。人間は、天地と万物はそれ自体の自然の法則に律せられ、それ自体の自然の法則によって生存し、それらを管理する支配者も、施しを与えてそれらを守る統治者もいないと信じるだけです。あなたが神を信じていたとしても、これらのすべてが神の業だと信じない可能性もあります。事実、神の信者、神の言葉を受け入れる人、そして神に付き従う人の全員によって、しばしば無視されることの一つがこれなのです。そうしたわけで、わたしが聖書と無関係な何か、いわゆる霊的な用語と無関係な何かを話しだすやいなや、うんざりしたり、あきあきしたり、不快にすらなったりする人がいます。わたしの言葉が霊的な人々や霊的な物事からかけ離れているように見えるのです。これは恐ろしいことです。神の業を認識することについて言えば、天文学に触れなかったり、地理学や生物学を研究しなかったりしたとしても、わたしたちは神の万物に対する支配を理解し、神が万物に施していること、神が万物の源であることを知らなければなりません。これは必要不可欠な教訓であり、学ぶ必要があります。みなさん、わたしの言葉を理解しましたね。

先ほど述べた二つの物語は、いささか独特な内容で、表現方法も変わっており、そのうえ語り口もいささか特殊だったかもしれません。しかしそれは、より難解な事柄をあなたがたが把握して受け入れることができるよう、明解な言葉と簡潔な方法を使うわたしの試みだったのです。それがわたしの唯一の目的です。これらの短い物語とそこで描かれた光景から、神があらゆる被造物の支配者であることをあなたがたが理解し、信じるようになってほしかったのです。これらの物語を話したことの目的は、物語の制限の中で、あなたがたが神の無限の業を理解し、わかるようにすることです。あなたがたがその成果をいつ自分の中で完全に実現し、達成できるかは、あなたがた自身の経験と追求次第です。あなたが真理を追い求め、神を知ることを求める人であれば、こうした事柄はさらに強力な助言として役立つでしょう。それらはあなたに深い認識と明瞭な理解をもたらし、神の実際の業と徐々に近づき、まったく距離も誤りもない程度まで密接するようにします。しかし、あなたが神を知ることを求める人でなくても、これらの物語があなたがたに危害を加えることはあり得ません。これらは真の物語だと考えればそれでいいのです。

これら二つの物語から、あなたがたは何かを認識しましたか。まず、これら二つの物語は、人間に対する神の懸念という以前の議論と無関係なものですか。固有のつながりがありますか。これら二つの物語から、神の業と、神が人間のために計画しているあらゆることの中に、神が払っている周到な配慮を見て取れるというのは本当ですか。神の業と考えがすべて人間の存在のためにある、というのは本当ですか。(本当です。)人間に対する神の細心の考えと配慮は、極めて明瞭ではありませんか。人間は何もする必要がありません。神は人間のために空気を用意しました。人間はそれを呼吸すればいいのです。人間が食べる野菜や果物はすぐに用意されます。東西南北の各地域には、それぞれ独自の自然資源があります。また様々な穀類、果物、野菜が神によってすべて用意されています。より大きな環境において、神は万物が相互に強め合い、依存し合い、妨げ合い、共存するようにしました。これが、万物の生存と存在を維持する神の方法と法則なのです。そのようにして、人間はその生活環境の中で安全かつ静かに育ち、現在に至るまで世代ごとに増加を続けてきました。つまり、神は自然環境に調和をもたらすのです。神の統治と支配がなかったとしたら、依然として神によって環境が造られたとしても、それを維持して調和させる能力は誰にもないでしょう。空気が存在しない場所もあり、人間はそのようなところで生活できません。そして、神は人間がその場所へ行くことを許しません。したがって、境界を越えてはいけません。それは人間を守るためであり、そこには神秘があるのです。こうした環境の各側面、地球の長さと幅、ないし生死を問わず地球上のすべての生物は、いずれも神が前もって知覚し、用意したものです。それぞれのものはなぜ必要であったり、不要であったりするのですか。ものをここに置いたりあそこにもっていったりする目的は何ですか。こうした疑問について神はすでに考え抜いており、人が考える必要はありません。山を動かすことを常に考えている愚かな人々もいますが、山を動かさず、その代わり野原へ移動すればいいでしょう。山が好きではないのであれば、なぜ山の近くに住むのですか。それは馬鹿げていませんか。山を動かしたら何が起こるでしょうか。台風や巨大な波がやって来て、人間の家は破壊されるでしょう。それは愚かな行動ではないでしょうか。人間には破壊することしかできません。唯一の生きる場所すら維持できず、それでいて万物に施すことを望んでいます。それは不可能です。

人間が万物を管理し、その主となることを神は許していますが、人間はよい仕事をしていますか。人間は破壊できるものを何でも破壊しています。神が人間のために造ったあらゆるものを、人間は最初の状態に維持することができず、逆のことをして神の創造物を破壊します。人間は山を動かし、海を埋めて陸に変え、野原を誰も住めない砂漠に変えてきました。それでもなお、人間は砂漠に産業を興し、原子力発電所を建てるなどして、あらゆる場所に破壊をもたらしています。もはや川は川でなくなり、海は海でなくなったのです……人間が自然環境の調和と法則を破壊すると、災難と死が間近に迫ります。それは避けられません。災害が発生すると、神が自分に造ってくれたものがどれほど貴重か、それが人間にとっていかに重要かを、人は知ります。人間にとって、適切なときに風雨がやって来る環境で暮らすことは、楽園で暮らすことに似ています。人間はそれが祝福だとは気づいていませんが、それをすっかり失った瞬間、それがどれほど稀少で貴重かを知るのです。いったんなくなったら、それを取り戻すにはどうすればいいですか。神が再び創造するのを望まなかったとしたら、人間には何ができるでしょうか。あなたがたにできることはありますか。実は、あなたがたにできることがあります。それは極めて単純であり、それが何かを言えば、実行可能であることはすぐわかります。人間の存在が現在のような状態に置かれたのはどうしてですか。それは人間の貪欲さと破壊のためですか。人間が破壊を止めたら、生活環境は自然と徐々に修復されるのではないですか。神が業を一切行なわず、人間のために業を行なうことを望まなくなったとしたら、つまり神がこの件に介入しなかったら、破壊を一切止め、生活環境が自然の状態に戻るようにするのが人類の最善の解決策でしょう。そうした破壊をすべて止めるというのは、神が造った物事を略奪したり、荒らしたりするのを止めるという意味です。そうすることで、人間が生活する環境は次第に回復しますが、それを怠った場合、生活環境はいっそう不快なものになり、時間とともに破壊が進むでしょう。わたしの解決策は単純ですか。それは単純であり、実行可能です。違いますか。単純であることに間違いはなく、また一部の人にとっては実行可能なものです。しかし地球上の大部分の人々にとって、これは実行可能ですか。(実行可能ではありません。)少なくともあなたがたにとって、これは実行可能ですか。(実行可能です。)あなたがたが「実行可能です」と言うのはなぜですか。それは、神の業の認識という基礎から生じるものだと言えるでしょうか。その条件は神の支配と計画に従うことだと言えるでしょうか。(言えます。)物事を変える方法はありますが、いま話し合っている主題ではありません。神は人間のいのちの一つひとつについて、その最後の時まで責任を負います。神はあなたに施し、サタンに破壊されたこの環境の中、たとえあなたが病を患ったり、汚染されたり、害を受けたりしても、そうしたことは関係ありません。神はあなたを施し、あなたを引き続き生かします。あなたがたはこのことを信じなければなりません。神は人が死ぬのを軽々しく許したりはしないのです。

あなたがたはいま、「神は万物のいのちの源である」と認識することの重要性について、何かを感じるようになりましたか。(なりました。)何を感じていますか。教えてください。(それまでは、山、海、それに湖を、神の御業と関連づけようとは考えませんでした。今日、神の交わりを聞いて初めて、これらのものの中に神の御業と知恵があることがわかりました。神は万物を造り始めたときでさえ、一つひとつのものの中に運命と神の善意をすでに吹き込まれていたことがわかります。万物は相互に強め合い、頼り合っており、人間は最終的な受益者です。本日の話は新鮮かつ斬新に感じるものであり、神の御業がどれほど現実的かが感じられます。現実の世界、わたしたちの日常生活、そして万物との遭遇において、そのとおりであることがわかります。)あなたは本当にわかったのですね。神は確固たる根拠をもたずに、人間に施すことはありません。神の施しは2、3の短い言葉ではないのです。神は数多くのことを行ない、たとえあなたの目に見えなくても、それはすべてあなたに資するものなのです。人間は、神が人間のために造った万物の中、人と万物が相互に依存する環境において暮らしています。たとえば、植物は空気を清める気体を吐き、人は清められた空気を呼吸してそこから益を得ます。一方、一部の植物は人間にとって有害ですが、別の植物がそうした有毒な植物を妨げます。これは神の創造の奇跡です。しかしその主題は後に回しましょう。今日、わたしたちの議論はおもに人間とその他の被造物との共存についてであり、それら被造物がなければ人間は生きられません。神による万物創造の重要性は何ですか。人間はその他の被造物がなければ生きられませんが、それは生きるのに空気を必要とするのと同じことです。真空状態に置かれれば、あなたはすぐに死んでしまいます。これは、人間がその他の被造物から離れて生きられないことを示す、極めて単純な原則です。では、人間は万物に対してどのような姿勢をとるべきでしょうか。それらを大事にし、守り、有効に使い、破壊せず、無駄遣いせず、気まぐれに変えないという姿勢をとるべきです。万物は神から生じて人間に施されたものであり、人間はそれらを良心的に取り扱わなければならないからです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VII.」(『言葉』第2巻)

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