メニュー

「裁き」への誤解を解消できた私は、主の再来を迎えた

【編集メモ】多くのクリスチャンは皆聖書の中に記載されている「終わりの日の裁き」を知っていますが、「裁き」に含まれる意味を明確に説明できる人はいません。かつて彼女は「裁き」に対して想像に満ち、その後、神様の言葉の導きの下で、彼女は「裁き」に対して新たな認識を得られ、そして主の再来を迎えたのです。

集会の時に主が再来される良いお知らせを聞いた

私は2016年に主を信じ、毎週教会堂に集会しに行っていました。その後、一人の新人、若い姉妹が来て、数回の集会を通して、私は姉妹が色々な聖句に対しての交わりに新しい光があって、皆も供給を得ることができたので、私も羨ましくなり、こう思いました。「この姉妹は若いですが、聖書に対する交わりは牧師よりよいです。彼女はどのように聖書を読んでいるのか?」私は好奇心を持って、こっそりと姉妹に聞きました。「あなたは聖書に詳しいですね。どうやってこんなに多くの聖句を理解しているのか。」姉妹は自分がほかの集会場所で集会しているから、そこの兄弟姉妹の交わりのほうが明白、理解しやすいと言い、私を誘ったのです。私は喜んでうなずきました。

日曜日に、姉妹は私を連れてその集会場所に向かいました。兄弟姉妹は心をこめて私を招き入れました。腰掛けた後、兄弟姉妹は私に主イエスが既に戻られ、受肉された全能神であり、多くの真理を語られ、一段階の人を裁き、清める働きをなさり、まさに聖書の預言「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙4:17)「わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:48)の実現だと教えてくれました。そして、私に神様の六千年経営計画、神様の声をどのように聞き分けるか、人類の終着点の奥義などの側面の真理を交わりました。姉妹が詳しく交わってくれて、私はそれを聞いてから、明白になり、神様を信じることにおいての奥義がたくさんあることに気づきました。そこで、私は全能神教会をよく考察することを決意しました。集会が終わった後、家で読めるように、姉妹は一冊の神様の言葉の本をくれました。

「裁き」への誤解を解消できた私は、主の再来を迎えた

心から「裁き」への誤解が生じた

家に帰った後、私は手が空いたら全能神の言葉を読み、読み終わったら、神様の言葉がとてもいいと感じ、読むのが好きになりました。ある日、私は全能神が次のように言われた箇所を読みました。「終わりの日の働きとは、すべての人をその性質に応じて区分し、神の経営(救いの)計画を締めくくることである。時が近づき、神の日が来たからである。神の国に入る人すべて、すなわち神に最後の最後まで忠実な人すべてを、神は神自身の時代に連れて行く。しかし、神自身の時代が来る前は、神の働きは人間の行いを観察したり、人間の生活について調べたりすることではなく、人間の不服従を裁くことである。神の玉座の前に来る人すべてを、神は清めなければならないからである。今日まで神の足跡に従ってきた人はすべて神の玉座の前に来る人であり、これゆえに、最終段階の神の働きを受け入れる人の一人ひとりは神の清めの対象である。言い換えれば、最終段階における神の働きを受け入れる人は誰もが、神の裁きの対象なのである。」私はこのように心の中で思いました。「主イエスは終わりの日に再び受肉され、最後の選別の働きをなさり、人々をそれぞれその種類に応じて分類させるなら、すべての神様の終わりの日の働きを受け入れる人は皆神様の裁きを経験しないといけないのか。」私はつい思わず自分が話すときにまだ嘘をついて人を欺き、人と付き合うときに術策を用い、人を妬み、他人に傷つけられたときに人を恨み、たくさんの欠点、例えば人に対していつも当たり散らし、同僚と怒るなどがあります。今日主が来られて裁きの働きをなさり、もし私の昔の出来事を持ち出されたら、私は罪に定められるのではないか。それならどうやって神様の国に入れるのか?これを考えて、私は自分を心配し、きっと神様の国に入れないと思って、消極的になってしまいました。私は兄弟姉妹に打ち明けて交わり、尋ね求めて解決したいですが、兄弟姉妹は私がこのような人であるのを知ったら、私を嘲笑い、貶すのではないかと恐れたため、私は逃避して再び集会をしたくなかったのです。

兄弟姉妹はこのことを知らないので、よく集会に参加するように私を誘いましたが、私はいつも仕事が忙しい或いは他の口実で彼らを拒絶しました。しばらくしてから、兄弟姉妹はまた私にメッセージをして、いつ時間があるかを聞いて、彼らは私の時間に基づいて集会のスケジュールを組むと言いました。兄弟姉妹の思いやりに直面しても、私は心の扉を閉じていました。私はあらゆる方法を尽くして理由を探して彼らを拒絶し、ひいてはわざと返事しないが、彼らは気にかけず、私を包容し、忍耐し、また様々な方法を考えて私に集会できない問題を解決してくれて、いつも私に何か困難があるかを聞き、言葉には私への思いやりと世話を表し、これは本当の愛ではないか。兄弟姉妹に誠実に招かれ、私は本当に断わりかねて、彼らの集会に参加しました。最初、私はどうしても心を静められず、私は毎日罪を犯しては告白する状態の中に生き、もし神様が私を裁いたら、その時また私は罪に定められるため、今聞いても無駄だと心の中で思っていました。しかし、これらの考えはずっと兄弟姉妹に話さなかったのです。メンツにほだされ、いい加減に集会に参加していました。

「裁き」への誤解が解消された

ある集会の時、姉妹が裁きに関する側面の真理を交わった時、ようやく私の観念が解消されたのです。楊姉妹はこう交わりました。「全能神が真理を語られ、終わりの日の人を裁き、清める働きを行われるのは、私たちを神様の国に導き入れるためです。しかし、ある人は神様の意図を理解できず、神様が人を裁き、刑罰するのは、人を罪に定めるのではないかと思います。そのため、神様の終わりの日の裁きの働きを受け入れることを拒絶するのです。それでは、神様が再び肉となって裁きと刑罰の働きをなさり、人間にとっていったい救いなのか、それとも罪に定めることですか?多くの人はこの問題を理解することができません。この側面について、全能神はどう言われるかを一緒に見てみましょう。」楊姉妹の話を聞いて、私はパッと元気になり、「今日の交わる話題はとても興味があります。私は楊姉妹が言った『多くの人』の中の一人であり、神様の裁きの働きは人間にとって罪に定めるか、それとも救いなのかが分からないのです。」と心の中で思いました。私はさらにまじめに聞きました。

この時、ある姉妹は全能神の言葉を読みました。「神のすることはすべて、あなたたちへの真の愛である。神に悪意はまったくない。神があなたたちを裁くのは、あなたたちの罪の故である。それは、あなたたちが自分自身をよく吟味し、このすばらしい救いを受けられるようにするためである。これはみな、人間を形成するために行われる。始めから終わりまで、神は人間を救うために全力を尽くしている。そして、確かなことは、神には、自らの手で創造した人間を完全に破壊するつもりはない。今、神は働くためにあなたたちの間に来た。これは、より以上の救いではないか。もし神があなたたちを憎んでいるのなら、あなたたちを直接導くためにそれ程大きな働きをするだろうか。なぜ神がそのように苦しむ必要があるのか。神はあなたたちを憎まないし、あなたたちに何の悪意ももたない。あなたたちは、神の愛が最も真実な愛であることを知らなければいけない。神が裁きを通して人々を救わなければならないのは、唯一、彼らの不服従の故である。そうでなければ、彼らは救われないだろう。」「今日、神はあなたたちを裁き、あなたたちを罰し、あなたたちを罪に定めるが、あなたを罪に定めるのはあなたが自分を知るためであることを知りなさい。罪に定めること、のろい、裁き、刑罰――これらはみなあなたが自分を知るため、あなたの性質が変わるためである。そしてさらに、あなたが自分の価値を知り、神の行動はすべて義であり、それは神の性質と神の働きの必要性に適っていること、神は人を救うための計画に従って働くこと、神は人を愛し、人を救い、人を裁き、罰する義なる神であることを理解するためである。……神は人を殺したり、滅ぼしたりするためにではなく、裁き、のろい、罰し、そして救うために来たのだ。」

楊姉妹はこう交わりました。「全能神の言葉から私たちは明らかに認識できるのは、神様が終わりの日に裁きの働きをなさる目的は私たちの罪を定めるのではなく、さらに私たちを懲罰するのでもなく、私たちの心を目覚めさせ、自分がサタンにより深く堕落させられた真実を認識し、背くことを許さない神様の義であり聖なる本質を認識し、堕落した性質から解放されるように私たちを救い、真の人間らしさを行動で示し、神様に救われるためです。なぜなら、今全人類がサタンの支配下に生き、ますます邪悪、堕落が酷くなり、終日飲食と快楽を追求し、罪の中に生きていて悔い改めを考えず、罪のはかない歓楽にふけ、宗教界さえ世界の邪悪な流れに従い、生きているので、不信者との違いがありません。真理を慕い求め、神様の出現を望む人がいません。神様が終わりの日に現れて働き、語られた真理は皆インターネットに載せられていますが、積極的に探し求め考察する人は何人いるのでしょうか。人々は皆全く関心も持たず、無視しており、ひいては神様の再来を罪に定め、抵抗しています。ここから分かるのは、私たちはサタンに頂点まで堕落させられ、真理を愛さず、邪悪を崇め、神様に抵抗するのです。もし終わりの日に神様が真理を語られ裁きの働きを行わないなら、私たちは自分を反省し認識できず、また主が憐れみ、慈しみであり、いくら私たちがどれほど罪を犯しても、主に赦され、主が再来される時に皆天国に引き上げられると思うのです。実は、神様が聖くて義であるのに、神様はどうして神様に抵抗する人を神の国に導き入れるのでしょうか?私たちは神様の裁きと刑罰を経験してこそ、自分の堕落した真相を見極め、いのちの性質が変化され、神様へ本当の服従と畏敬に達することができ、こうしてこそ神様の国に導き入れられる資格を得られます。ここから分かるのは、神様の裁きの働きは人にとって極めて大きな愛と救いです。それらの真理を憎み、全能神の言葉の裁き、清めを拒絶する人だけが、暴かれ淘汰されるのです。」

ここまで聞いて、私の心配は安心に変わり、なんと神様が人を裁くのは罪に定めるのではなく、よりよく人を救うためだと分かったのです。私たちは毎日罪を犯しては告白する状態の中で生き、いつも思わず神様に逆らってしまい、確かにサタンに深く堕落させられ、私たち自分自身に頼るなら、罪の束縛から抜け出すことできず、確かに神様が一段階の裁きの働きをなさって私たちを救う必要があります。もし今日姉妹のこのような交わりがなかったら、私はまだ神様の意図を誤解し、神様の裁きの働きは私たちを罪に定めることだと思っていたままでした。神様に感謝します。今私は神様が終わりの日に裁きの働きをなさる意味を理解しました。

神様の終わりの日の裁きの働きはとても現実的である

この時、楊姉妹は続けて交わりました。「私たちは神様の終わりの日の裁きの働きが人を救うためであることを知りました。それでは、神様はどのように裁きの働きをなさるのでしょうか?この側面の真理について、一緒に一段落の神様の言葉を読んでみると分かるはずです。全能神は言われます。『終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。』

神様の言葉から私たちが分かるのは、全能神は真理を語られて裁きの働きを行われ、私たちが全能神の言葉を読むとき、神様が私たちに面と向かって私たちを裁いているのを感じ、神様の言葉は鋭い剣のように、私たちの神様に抵抗し、神様に背く本性を暴き出し、私たちは自分がサタンに深く堕落させられ、生きているのは皆傲慢で高ぶり、真理にうんざりし、利己的で下劣で、欺瞞や不正を行い、邪悪かつ貪欲などのサタン的性質があり、真の人間らしさは少しもありません。例えば、本分を尽くすとき、兄弟姉妹が私たちに異なる意見を出すとき、私はいつも自分の考えが正しいと思い、いくら相手の言ったことが真理と一致しても、私たちは受け入れたくなく、他人が自分の言うことを聞くように求め、とても高慢で高ぶっています。私たちは神様を信じているが、本性は真理を愛さず、金銭、名利や地位を崇め、不信者と同じく飲食と快楽を追求し、官能的快楽にしがみついています。少し放棄し費やしても、神様と取引するのであり、報いを得て天国に入るためであり、神様の愛に報い、被造物の本分を尽くすのではありません。そのほか、神様の終わりの日の働きは、言葉を用いて私たちを裁き、刑罰する以外、実生活の中で、様々な環境を配置されて私たちを刈り込みと取り扱い、試練と精錬をするのです。例えば、私たちがいい加減に本分を尽くすとき、神様は私たちを刈り込みと取り扱いをするためにリーダーや働き人を興されます。私たちが頑なに神様に逆らい抵抗するとき、神様は私たちを懲らしめと鍛錬するために環境を作り出されます。私たちの心が神様に立ち返るとき、神様はまた私たちを憐れみ、私たちが神様の意図を理解するように啓示し導いてくださいます。私たちは神様のこのような裁きの働きの中で、自分の堕落した真相に対してますます認識するようになり、肯定的なものと否定的なものに対してますます識別できるようになり、物事の見方が次第に変化し、神様の性質に対して真の認識を身につけ、神様への畏敬と敬愛の心を持つようになり、あらゆることにおいて真理を尋ね求め、実践し始め、再びサタンの堕落した性質によって生きたくないのです。良心と理知が取り戻され、堅実に被造物の本分を尽くしたくなり、神様の支配と采配に服従し、いのちの性質がますます変化され、真の人間らしさを持つようになります。これは皆神様の裁きの働きによって達した効果です。」

姉妹の交わりを聞いて、私の心配が全部なくなり、神様の働きは本当に現実的だと分かりました。もし神様の言葉の裁きと刑罰を経験しなかったら、私たちは皆自分を高く評価し、自分を認識することなんかできません。もし自分を認識しなかったら、私たちはどうやって変化できるのでしょうか?神様の終わりの裁きの働きに対して少し認識できた後、私は喜んで神様の終わりの日の働きを受け入れました。

次の集会をするときに、姉妹は私に一部の全能神教会の証しの経験の映画「神様の働きによって私は真の人間らしさを生きてきました」を見せてくれました。映画の中の主人公は数十年にわたって建築の請け元に携わっており、かつて「政府と企業の共謀」の暗黙のルールに従わないと商売できない暗い社会の中で、お金を稼ぐため、彼は止むを得ず邪悪な流れに従って、賄賂し、自堕落になり始め、政府関係者とぐるになって、たくさんの悪事を働くのですが、良心のとがめにより彼は苦痛ともがきの中で生きています。母親が全能神の終わりの日の福音を彼に伝えた後、神様の言葉の裁きと刑罰の中で、彼は自分がサタンに堕落させられた哀れさを見極め、自分を後悔し、嫌悪し、神様の言葉によって正直者となることを実践し、その後、次第にサタンの束縛から抜け出し、神様の祝福と守りの中で生きられるようになりました。

この映画を見てから、私は神様の裁きの働きは確かに人間を救い、清めることができることを見ました。もし神様の裁きと刑罰がなかったら、私たちは自分がどれほどサタンに堕落させられたかを知ることができず、神様の裁きと刑罰は確かに私たちをサタンの束縛から救い出すことができ、神様の言葉は本当に権威と力があります。幸いに私は神様の終わりの日の働きを受け入れることができて、本当に心から神様に感謝します。今私のうちに堕落した性質はまだたくさんあり、今後私はより多く全能神の言葉を読み、神様の裁きと刑罰を経験し、一日も早く神様に清められ、完全にされ、神様の心に適う人になれるように願います。

寄稿家:尽意(米国)

コメントを残す