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死がわたしに迫ってきた時、奇跡が起こった

2016年3月3日、朝ご飯を食べた後、わたしは集会に行こうと電動自転車に乗って出かけました。村の狭い道路まで行った時、れんがをいっぱい積んだ大型貨車がバックしているのを見ました。行く手を阻まれたわたしは大型貨車を避けようとして、絶えず後ろへ下がり、場所が狭いため、他人の家の庭の戸口(その庭の門は高さが2メートルもある。庭の門の上部に乗せた、長さ3メートルものコンクリートブロックはもう道路に突き出た)にまで退きました。バックしている貨車がわたしの頭の上のコンクリートブロックにぶつかるのではないかと心配して、わたしは貨車の後部をじっと見つめていました。

突然、1枚のれんががわたしのヘルメットに落ちました。わたしがれんがを取りのけようとすると、ドーンという音がしました。どういうわけかわたしはすでに地面に座りました。当時、ほこりがわたしの目の前に舞い上がっていて、真正面からわたしの顔に当たりました。わたしは足がきりきり痛みました。頭を下げて見ると、バックしている貨車にぶつけられた庭の門の上のコンクリートブロックが落ちました。そのコンクリートブロックは重くて長くて、ちょうどわたしのすねに落ちました。そのため、わたしは身動きできなくなりました。

それでも、貨車はやはりわたしに向かってゆるゆるバックしていました。貨車がそのままバックすれば、わたしはきっと真っ先に車輪にひかれます。そのような場面を、わたしは想像していけなくなりました。だが、そのような時、わたしは全然避けられませんでした。

貨車がまだバックしていました。車輪がわたしからほんの一メートルしか離れていませんでした。当時、わたしの心臓がのどから飛び出しそうになりました。わたしは急いで周囲を見回したが、一人も見かけませんでした。その時、だれもわたしを助けられませんでした! わたしは運転手に向かって声を限りに叫びました、「もう車をバックさせないで! 後ろに人がいるよ!」と。だが、運転手はわたしの叫び声が全然聞こえず、依然として車をバックさせていました。

危機一髪という時に、わたしは神を思い出し、すぐ心の中で神に祈りました。「神よ、わたしの命はあなたの手中にあります。わたしが死ぬか生きるかは、あなたの決定にかかっています。わたしはわたしを完全にあなたに渡します」と。わたしは祈りながら顔をそむけ、もはやゆるゆる後退している車輪を見なくなりました。一秒、二秒、三秒……と時間が過ぎていきました。車輪はまだ後退していました。死がわたしに迫ってきました。わたしの胸がどきどきしていました。突然、わたしはわたしの方へ走ってくるだれかが「もう車をバックさせないで。あなたの車が人にぶつかったぞ」と叫ぶのが聞こえました。すると、貨車はすぐ止まりました。顔を振り向けて見ると、車輪とわたしの間の距離はまだ一メートル足らずでした。

貨車を呼び止めたあの数人の通行人はすぐ走ってきて、わたしの足に落ちたコンクリートブロックを運んでいってしまいました。当時、わたしの頭がくらくらし、全身が痛く、足も思うように動かなくなりました。「足はだめになったかもしれない。」と、わたしは心の中で思っていました。

しばらくすると、二三十人の人が見物に集まりました。彼らは口々にしゃべりました。「こんなに重いコンクリートブロックが足に落ちたんだから、この人の足はきっと不自由になる」、「こんなに若いですね。これから一生車椅子に座るかもしれないな!」彼らの言葉を聞いて、わたしが怖くなりました。「わたしの足は本当にだめになったのか。わたしは本当に車椅子で後半生を過ごすのか」とわたしが思っていました。だが、さっきのスリリングな場面を思い出した時、自分が命拾いをしたのは神のわたしに対する守りのおかげだと意識しました。そこで、わたしは心の中で神にこう祈りました。「神よ、あなたの守りがなければ、わたしはもう貨車にひかれて死にました。わたしの命はあなたから与えられるのです。わたしはもうあなたの大能を見ました。あなたに感謝し、あなたを賛美します! 神よ、わたしの足が不自由になるかならないかは、あなたの支配にかかっています。足が不自由になっても、わたしは不平を言いません。わたしはあなたの支配と計画に従います」。祈った後、わたしの気持ちが落ち着きました。救急車がすぐ事故現場に到着して、わたしを病院に送りました。

わたしは救急車の中にいる時、聖書に書かれている次の言葉を思い出しました。「死の蔭の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」(詩23:4)。「あなたの傍らに一千の人、あなたの右に一万の人が倒れるときすら、あなたを襲うことはない」(詩91:7)。「あなたは主を避けどころとし、いと高き神を宿るところとした。あなたには災難も降りかかることがなく、天幕には疫病も触れることがない。主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」(詩9:9-12)。これらの言葉を考えている時、わたしは神がわたしのそばにいて、神の御手がわたしを支えていると感じました。そのため、心の中の、神に対する信仰がもっと大きくなりました。そして、わたしは心の中で神に祈りました。「神よ、あなたはいつでもわたしを顧み、守っていて、今までわたしを離れたことがありません。今日、あなたがわたしを守ってくださなければ、わたしはすでに死んでしまいました。神よ、あなたがわたしの砦の岩です。だから、わたしはあなたに依り頼み、あなたを崇め、わたしのすべてをあなたの手に渡します。わたしの足が不自由になっても、わたしはやはりあなたを信じ、あなたにつき従います。」。

病院でわたしが診察を受けた後、医者は「まことに幸いですね。骨を傷めなくて、ただすり傷をしただけです」と言いました。医者の言葉を聞いた後、わたしは心の中で絶えず神に感謝しました。神の守りのおかげで、わたしはあんな危険な状況の中でちょっと軽傷を負っただけです。しばらくしてから、わたしの足は少し痛いですが、動けるようになりました。でも、すねはやはり青黒くはれていました。一時間ぐらいたってから、夫はわたしを家に迎えました。

家に戻った後、神を信じない夫はまだ恐怖で胸がどきどきしていました。彼はわたしにこう言いまいた。「今日、病院へ行く途中で、一人の女が車にひかれて死んだのを見た。今日、3メートルのコンクリートブロックが落ちたのに、君はちょっと軽傷を負っただけで、死ななかった。バックしている車が君からほんの一メートルしか離れていないが、君は車にひかれなかった。君の信じる神は本当に君を守ったのだな。そうでなきゃ、君と話す機会はもはやなくなった!」。

今度のことを通して、わたしは次のことを認識しました。現実生活の中で、あらゆる人は自分がいつどんなことにぶつかるか、いつどんな災いを受けるかを知りません。神の守りがなければ、人はいつでも災難の中で死ぬ可能性があります。今日、死がわたしに迫ってくる時、神はわたしを救って、わたしに第二の命を与えてくださいました。神のわたしに対する愛について黙想する時、わたしは神の愛に感動されました。そのため、神の前で、わたしは最後まで神につき従い、被造物の本分を果たして、神のわたしに対する愛に報いるという志を立てました! 神に感謝します。すべての栄光を神に帰します!

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