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癌に罹っていのちの意味を認識しました

私はごく普通の専業主婦です。私の夫の家族は無職で学歴の低い私を蔑んでいました。私の夫も私のことをからかい、私を田舎者と呼んでいました。これ故に、私はこう決意しました。「もう二度とばかにされないように、仕事を見つけて、沢山をお金を稼ぐ必要があるわ。」後に、私は偶然にも保険を販売するために保険会社に就職しました。私は一生懸命に働いていたので、自分のクライアントはどんどん増えていき、販売実績もどんどん上がっていきました。私はリーダーたちから認められるようになり、彼らは私の能力を高く評価してくれました。僅か3か月の間に、私は先ずディレクターに、それからマネージャーへと昇進しました。私の同僚たちは誰もが私を羨望の、そして下から見上げるような眼差しで見ていました。以前私のことを見下していた家族と親戚までが私を称賛した態度で、そして強い関心を持って私を扱ってくれるようになりました。私は彼らの眼差しから自信と威厳を挽回し、ついに彼らの前で自分を誇りに思い、意気揚々としていられるようになりました。

癌に罹っていのちの意味を認識しました

ある日、私の隣人が私に主イエス様の福音を伝導し、私に主を信仰するよう言いました。私はこう思いました:「主を信仰するのはいいけど、仕事が忙し過ぎて時間がないんですよね。」しかし、私は彼女の善意を断ってしまうと彼女の子供に保険を売る機会を失ってしまうと考えました。私の仕事ではクライアントが一番大切だったので、私は隣人たちと良い関係を保つ必要があったのです。さらに、その頃、私の仕事はそれほど順調でもなかったのです。主イエス様を信仰したら、主は私がもっと沢山クライアントを見つけて、もっとお金を稼げるように御恵みをお与えくださるかもしれません。こうして、私は隣人と同意しました。後に私の隣人は私を集会に連れて行ってくれました。多くの兄弟姉妹たちを目にした私はどのようにして彼らと距離を縮めて、その内誰が保険を紹介するに適切であるかを見い出す計画を立て始めました。私は彼らと談話をする度に、間接的に彼らの経済状況を知ろうと試みました。私は彼らの経済状況が分かったら、チャンスを見つけて彼らに保険を紹介しようとしました。しかし、関心のある人は1人もおらず、誰も私の会社まで行こうとしてくれませんでした。ここでお金を稼げる期待が持てないと思った私はこう考えました:「集会に費やす時間を使ってもっと沢山のクライアントを見つけてもっとお金を稼ぎたい。」こう考えた私は頻繁に集会を休むようになりました。後に、私はあえて顔を見せようともしなくなり、完全に自分の事業に集中するようになりました。しかし、予期せぬことが起ったのです⋯

その数か月後、私の同僚は病院が無料で健康診断を実施しているから私に行くようにと言ってきました。私は同僚に説得され、病院へと向かいました。私が超音波検査を受けた後、医師はこう言いました:「あなたの婦人科疾患はとても深刻な状態です。あなたの子宮には余分な血管が沢山あります。血管が破損したら大変なことになりますよ。知らなかったのですか?先ずは検査をしてから結果を見ます。結果が陰性であれば大丈夫ですが、陽性の場合は治療を受けに大病院に行ってもらいます。」私はこれを大したことではないと感じたため、医者の言葉をあまり注意して聞きませんでした。こうして、私は自分の電話番号だけを残して、朝から晩まで自分の事業に従事し続けました。

その数日後、結果が出ました。予想外にも私は末期の子宮頸がんと診断されたのです。私はこれに唖然としました:「こんなことあり得ないわ。どうしてこんなことが私に起こるの?これで私も終わりだわ!まだ54歳なのに、死ぬに違いないわ。どうしてこんなに若くして死ななきゃいけないの?...... 」私はそれ以上考えようとしませんでした。その時、絶望感と恐怖感が私の心にこみ上げてきました。私はまるで奈落の底に落ちたかのようにとても無力で、孤独に感じました。

入院中、私の親戚、友人、同僚、そしてリーダーたちが次から次へと私の見舞いに来て、私を慰めてくれました。彼らを目の前にして、私は強いふりをして見せましたが、彼らが帰った後、私は思わず泣き出してしまいました。私は将来もう二度と彼らに会えなくなるのではないかと心配しました。その瞬間、私は自分たちのいのちのもろさを実感しました。私は毎日のように事業とお金のために忙しくしていましたが、癌を患って苦しんでいる私をキャリアとお金が助けてくれるでしょうか?私が苦しみ、惨めな思いをしていた時、私は急に以前集会で読んだ主イエス様の御言葉を思い出しました。「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」 (マルコによる福音書 8:36-37)。正にこの通りでした。私は一生懸命に働き、お金を持っていました。他人からは高く評価され、羨望されていましたが、私が癌に罹った時、こういったものが私を救うことはできなかったのです!こう考えていると、私は強く後悔しました。私は神の前でこう悔い改めました:「ああ、主なる神様、私は集会に行かず、あなたの御救いを大切にしなかったがためにこのような状況に陥ったことについて、自分自身を責めることしかできません。主なる神様、私は自分が間違っていたと分かっています。私はこのまま生き続けることができれば、必ず自分のいのちを大切にし、あなたの善良な信仰者になります。もし死ぬことになったとしても、文句は言いません。私はあなたに御導きいただき、現実と向き合う勇気をいただくことを願っております⋯」私は心の中で主イエス様に祈りを捧げ、懇願し続けました。私は無意識のうちに心の中が大分落ち着き、怖がったり、恐慌しなくなりました。

その後すぐに、医師は私の手術を施行してくれました。私は術後すぐに目を覚ましました。その当時、私は心の中で絶えず主に祈りを捧げ、主の元を一秒たりとも離れようとはしませんでした。その3日後、医師は私の傷はとても早く治癒したと言ってくださり、私はその7日後に退院しました。その10日後、私は化学療法を受けに病院に戻りました。私は、化学療法が理由で嘔吐が止まらない患者たちを見ても、驚いたことにそれにはあまり動じず、それどころか私は静かに眠ることができたのです。私はそれは主イエス様の御気遣いと御加護であったことを知り、私の心はさらに主に近づきました。私は、誰とも話しをしない日は主に祈りを捧げて讃美歌を歌いました。夜になると、私はカーテンを閉じ、ベッドの上で聖書を読みました。当時、私は神と親密な関係にあり、主は常に私の側にいてくださっておられる感じがしました。主は、私が悲観的になってイライラせずに医師と協力し合う信念を持てるよう、主の御言葉によって私を助けてくださり、勇気づけてくださったのです。私はまた、主を信仰せず、そして適切な形で真理を求めずにお金を稼ぐことを優先していたことを後悔しました。今日、私は癌と診断されましたが、主イエス様は私を御見離しにはならず私を御守りくださりました。私は心の中で主は愛すべき、かつ好意的な御方であられると感じ、私は主の前で増々恥ずかしくなりました。私は、「もし治ったら、将来必ず主を信仰する努力をして、主の愛に報いてみせます」、と自分に言いました。

しばらくした後、私は医師から癌科に行って放射線治療を受けるように言われました。そこはまるで生き地獄のようで、目も当たられない状況でした:乳がんの患者は癌細胞が腕に転移してしまい、腕が腫れ上がっていました。彼女はどんぶりを持ち上げることすらできませんでした。脳癌の患者は頭が腫れ上がり、顔の形が変形していました。子宮癌を患っていた他の患者は骸骨のように痩せ細り、ぞっとするような容姿をしていました⋯全ての癌患者たちは同じ病棟で生活しており、死者を悼む鳴き声が常に聞こえてきました。毎日のように患者たちは入院し、相次いで亡くなっていきました。その後すぐ、私と一緒に放射線治療を受けていた患者数人が全員亡くなってしまいました。この悲報を聞いて、私はとても怖くなり、死神がいつ私の所にやってくるのかと思いました。その瞬間、説明し難い恐怖感が私の心の中でこみ上げてきました。無力感に駆られた私は素早く主に祈りを捧げました:「ああ、主なる神様、あの患者たちは全員亡くなってしまいました。私は怖くてしかたありません。私は自分がいつ死ぬかは分かりませんが、自分の生死はあなたが御決定になることは知っています。私は自分のことをあなたの憐みに委ねます。どうか私の心を御守りください。」後に、私は聖書で読んだある話を思い出しました:「ラザロが死んでから4日が経ち、彼の遺体は既に悪臭を放っていました。しかし、主イエス様が一言仰ると、ラザロが墓から出てきました。」これにより、私は、主は死人を蘇生させることができる権威と御力を御持ちであられることを知ったのです。そして、私は主イエス様が仰ったことを思い出しました。「イエスは彼に言われた、『もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる』」。 (マルコによる福音書 9:23)。「また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう。」(マタイによる福音書 21:22) 主の御言葉は私に大きな信念と力を与えてくださり、また私が全ては主の御手の中にあることを信じられるようにしてくださったのです!私の体内の癌細胞が移転するかどうか、またはそれがどの程度移転するかは、全て主の御手の中にあったのです。私は全てを主に委ね、自らを主の憐みに委ねる意思を抱きました。主の御言葉を胸に、私はもう怖くなくなり、自分の病に注意を集中させるのをやめました。

放射線治療を数回受けた後、私の癌細胞は安定し、私は少しずつ回復していきました。医師と知り合いたち全員が私の前向きな考え方を褒めてくださり、私の素早い回復に驚いていました。私はこの全てが主の御気遣いと御加護の下にあることを知っていました。主が私に第二の人生をお与えくださったのです。家族の前で自分の威厳のために必死になっていたことを振り返ると、私は彼らに見下されないように、「お金が一番大事」、「人々の中で注目を浴びる」等の人生観を指針として生きていたのです。しかし、私は神を心から信仰したことは一度もありませんでした。私はもっとお金を稼ぐことだけに固執していたのです。私は、お金を持ってさえいれば、人々から尊敬され、正しく評価され、個性と威厳をもって生きて行けると思っていました。それにもかかわらず、私は末期疾患と診断された時、自分がそれまで追いかけていたものはただ単に一時的な喜びと安心しかもたらしてくれないことに気が付いたのです。しかし、その後も、私は虚しさを感じました。これらのものは私の寿命を延ばすことも、病による苦しみを緩和することもできず、まして私の心と魂に安らぎをもたらすことなどできなかったのです。それはまるでソロモンの実の心情のようでした。「そこで、わたしはわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである。」主イエス様はこう仰りました:「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネによる福音書 14:6)。主のみが真理であり、道であり、いのちであられるのです。主は追い求め、愛するに値する御方であられるのです!

私は主を心から信仰していなかったにもかかわらず、主はそれでも私に大いなる憐みをお与えくださりました。私が完全に無力で絶望していた時、主は優しく強い御手を私に差し伸べてくださり、私を死の淵から引き戻してくださりました。主は私が主の前に戻って、主の愛情の温かさと豊かな御備えを受けられるようにしてくださったのです。私は主の偉大な御恵みに心から感謝しています!

帰宅した時、私はまた教会に行って、兄弟姉妹たちと集まるのを待ち切れませんでした。私は心からこれを喜びました。私は心の中でこう決意しました:「将来、私は何に遭遇しようとも、主の愛情に報いるために、必ず主を適切に信仰し、真理を求め、主の福音を伝導してみせます!」

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祈りの証言 - 生死の瀬戸際で主イエス様の御恵みを授かりました

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