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神の御心に叶う奉仕は4つの重要な要素を理解しなければなりません

第1に、私たちは神を愛する心を持ち、主の御心を考慮し、全てにおいて主と心を1つにし、主の親友になろうと一生懸命に努力する必要があります。

主イエス様はこう仰りました:「イエスは言われた、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。」(マタイによる福音書 22:37-38) これらの御言葉は主イエス様が私たちに守るようにと求められる戒めであり、それ以上に主に仕える人それぞれに対し要求されていることでもあります。主は私たちが主を愛する心を持つこと、そして主の親友になる最善の努力をすることを求めておられます。ペテロを例に挙げてみましょう。彼は自らの将来を考慮したり、そのための計画を立てることなく、主に従い、そして主からの任務を担うために世俗的なもの全てを捨てました。彼は主と心を1つにし、全てにおいて主の御心を満たすよう求めました。主イエス様は死から復活された後、ペテロの前に現われました。そのことは聖書にこのように記されています、「またもう一度彼に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。彼はイエスに言った、『主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです』。イエスは彼に言われた、『わたしの羊を飼いなさい』。イエスは三度目に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。ペテロは『わたしを愛するか』とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、『主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています』。イエスは彼に言われた、『わたしの羊を養いなさい。』」(ヨハネによる福音書21:16-17)。ペテロは最初から最後まで主に忠実でした。従って、主イエス様は彼が主を愛する者になることを期待され、主の信者たちを導くという大変な責任を託されたのです。その後、ペテロは常に主イエス様の御言葉を心の中に抱き、進んで神の真の愛を追い求めることに一生分のエネルギーを費やしたのです。彼は主の御心を考え、全てにおいて主を満足させることに集中し、迫害や苦難を強いられながらでも主の信者たちを引率しきったのです。最終的に、ペテロは死ぬまで神に従い、神を極限まで愛しながら、主のために逆さ十字形に遭いました。これ故に、ペテロはまさしく主と心を1つにしていた人であり、主の親友でもあったのです。私たちは主に仕える資格を得たければペテロに習う必要があり、主を知り愛することを求め、全てにおいて主の御心を考える必要があります。加えて、私たちは、業務を行うにあたり、主の働きのため、主を讃えて主の証言を行うために自らを犠牲にし、個人的な関心を考慮したり、そのための計画を立てたり、自分たちに良いことを求めたりせずに心から主の御心を満たすべきなのです。そうすれば、私たちの業務は主の御心と調和が取れるようになるのです。

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第2に、私たちは全てにおいて真理を求め、主の御心を理解し、聖霊の働きにおいて綿密に協力し合い、聖霊の働きと歩調を合わせる必要があります。

全てにおいて真理を求め、主の御心を理解するということは主が信者全員に求めておられることですが、それ以上に、主のしもべ全員が入り実践すべきことであります。しかし、私たちは説教したり働いている時、または何らかの問題や困難に遭遇する時、多くの場合は全く神の御心を求めようとせずに独自のやり方をしてしまいます。時に、私たちは真理を求めていても、その過程をたどるだけで、何の結果も得られていないことがあります。例えば、兄弟姉妹たちの信仰が冷めていくのを見たり、世界のトレンドを追いかけて肉の快楽を楽しんでいる者を見たり、主を見捨てて裏切る者たちを見ると、私たちはただ単に彼らを支えて激励するといったありとあらゆる外面的な行動を取ることに集中し、やるべきことをやってさえいれば十分だと思っています。しかし、私たちは主の御心を求め理解することには全く注意を払わず、これらの問題の根源は何なのか、教会を蘇らせて神を安心させ、満足させるためには何をすべきであるのかということは全く考慮していません。主の御心を理解して求めることがなければ、私たちは神から増々離れていき、心の暗さと渇きを感じ、主の御前に触れ、御指導を受けることができず、歩む道を持つこともないのです。

しかし、常に主の御心を理解することに集中していれば、私たちは聖霊の御啓示と御導きを容易に受けることができ、教会で起きている問題や困難を次第に見抜けるようになり、どのようにして主に仕える働きを適切にこなし、私たちの業務においてどういった原則を把握しておくべきで、どのようにして、心を尽くし、思いを尽くし、魂を尽くし、そして力を尽くして私たちの本分を適切にこなして神を満足させるのかということがはっきりと分かるようになります。こうすることで、本分を実行するにあたり、私たちの人間的な考えは減り、行動を取る上で自分たちの観念と想像、能力や内面的素養に頼ることがなくなります。私たちの神との関係は普通になり、神の御心に沿った本分が行えるようになります。例えば、教会が悲惨な状態にあるという問題や、多くの信者が消極的かつ弱気になり、世俗的なものを求めるという問題に直面する際、私たち神のしもべは主の御心と要件を求めることにもっと努力を費やすべきなのです。私たちは教会が悲惨な状態に陥る根源を見つけることができれば、兄弟姉妹たちが主への信仰を取り戻すためにどう手助けすればよいのかがわかります。私たちは今こそが終わりの日の終末であると分かっています。この時期に教会が増々悲惨になり、信者たちが消極的かつ弱気になり、世俗的なものを追い求めるのはよく起る現象です。これは聖霊がもはや宗教界で働いていないことを示しています。これについて神はこう仰りました:「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。」(アモス書4:7)。悪化しつつある教会の悲惨さな状態を解決するために、私たちは聖霊の働きが宿る教会を見つけ、聖霊の働きの傾向と動きを追求し、新たな啓示と啓蒙を求める必要があります。私たちが自分たちの観念と想像を手放し、敬虔な心、および真理を切望し求める心を持っていれば、主は間違いなく私たちが主の御心を理解できるよう御導きくださり、生ける水の備えを受けられるようにしてくださります。真理を求める心を持って神に仕えていれば、私たちは神の啓蒙と祝福を授かり、私たちの欠くもの全てが神によって補われ、完全にされます。

第3に、私たちは業務において神を讃え、神の証言をし、兄弟姉妹たちを神の前に導くため、神の御言葉を実践し、そして神の御言葉を使用して問題を解決する必要があります。

人々を神の前に導くことは神に仕える者たちに対する神からの要求であります。人々を神の前に導きたい場合、私たちは神の御言葉と神の要件に従って彼らを導き支える必要があります。そのためには、私たち自身がまず神の御言葉の体験と知識を持ち、主の御心と要求に関する理解をある程度は得ている必要があります。私たちは全てにおいて、そして神がご用意くださる環境において、自らの欠陥と不備を知るために神の御言葉を熟考し、そして神の御言葉の中に実践するべき正しい道を見つけることを学ぶ必要があります。神の御言葉を体験し実践することを通じ、私たちは神の実際の、かつ真なる知識を習得し、私たちの神との関係は増々適切になるでしょう。こうすることで、私たちは遭遇する問題や困難の本質を見抜き、そして自らの実体験、ならびに神の御啓示と御指導を通じて兄弟姉妹たちが神の御心を理解し、実践するべき道を見るけるのを助けることができるようになるのです。例えば、兄弟姉妹たちの間に意見の相違があり、業務を行う上で彼らが仲良くできていない様子を目にする時、私たちがこの問題の本質を知ることができず、それを解決するために神の御言葉を求めていなかったとすれば、私たちは自分たちの考えで彼らを注意したり、激励したり、または聖書の内容に従って彼らを非難して教育し、今後そういうことはしないようになどと言うでしょう。このような行為はただ単に彼らを物事の是非に執着させるだけで、彼らを神の前に導くことは全くできないのです。しかし、私たちが問題を解決するために真理をもって実践し、兄弟姉妹たちに神にもっと祈りを捧げ、神をもっと頼りにし、神の働きを一緒に体験するように指導していれば、彼らは、「私たちは誰もが堕落した性質を持っており、それによって支配されコントロールされている私たちは他人と普通の関係が持てず、そしてそれはサタンによる欺きと堕落であること、神は私たちの堕落した性質を清めて変えるための環境を用意してくださること、私たちが自ら持つサタンの堕落した性質を知り、それを嫌い、自らの肉に背き、我執を捨て、真理を実践し神を満足させることに意識的に注意を払うことができれば、私たちは物事の是非に執着せず、他人と仲良くできるようになり、神が用意してくださる人々、出来事、物事、および環境から何らかの教訓を学ぶことができる」、ということを知るでしょう。従って、業務を行うにあたり、私たちにとって最も重要なことは、兄弟姉妹たちが神を知り、神の御心と要求を理解することを学ぶように指導し、神はどのような人を愛されるか、そしてどのような人を嫌われるかを理解させ、神の性質と神そのものに関する真の知識を修得させることであり、そうすることで彼らは神の御言葉を実践し、神に従い、神を崇拝できるようになるのです。これこそが人々を神の前に導くということであり、神を讃え、神の証言をしているということでもあるのです。

しかし、もし私たちが自己顕示するため、および自らを褒め称えるために説教を説いて、自分たちのイメージを確立させることには集中しているが、真理を使用して問題を解決することができないという場合、私たちが主の御言葉を実践して主の道に従うよう人々を導くことができていない場合、そして私たちが人々を神の前に導き、神を尊敬させ、神を頼らせるために神を褒め称え、神の証言をするということをしていない場合、私たちの業務は実際に主に抵抗していることになり、私たちは反キリストが歩む道を歩んでいるということになります。聖書に記述されているパリサイ人のことを振り返ってみましょう。彼らは説教と働きを行う中で人間の習わしを遵守していましたが、神の戒めを捨て去り、神の道から逸脱していきました。加えて、彼らは頻繁に自分たちの証言を行って自らを褒め称えるような形で聖書の手紙と教義を解釈し、その結果、人々は誰もが彼らに耳を傾け、彼らに従い、神から離れ、神を裏切ったのです。主イエス様はこう仰りました:「そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、また、宴会の上座、会堂の上席を好み、広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる。しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。」(マタイによる福音書23:5-9). 主イエス様は私たちが唯一なる神のみを信仰し、崇拝することを要求されていることが分かります。従って、私たちはパリサイ人の業務を拒絶し、常に神を褒め称え、神の証言を行い、私たちの兄弟姉妹たちを神の前に導く必要があります。このような業務のみが神の御旨に沿った業務なのであります。

第4に、私たちは神の御心が妨害を受けることなく実行されることを保証するため、神の前では常に静まり、自らを省みて自己認識し、自らの罪や過ちを発見したら迅速に正すべきであります。

私たちは、主のしもべとして、常に神の御前で生きる必要があります。私たちは神の御啓示と御指導を通じ、自分たちはサタンに堕落させられているという真理を見抜き、真理を持っていないことがどれだけ哀れで、悲惨なことであるかを認識し、自らの欠陥と不備をはっきりと知り、自己認識を得るべきであります。私たちはまだ完全にされていないため、自分たちの本分を十分な形で尽くすことができず、業務を行う上で逸脱したり罪を犯すのはとても普通なことです。私たちは自分たちの逸脱と罪を発見したら素早く神の前に行き、神の御言葉に従いながら敬虔な心と探求心をもって自らを細かく分析して省みるべきです。これと同時に、私たちは周りにいる兄弟姉妹たちと純粋かつ率直に会話をするために自らの面目、虚栄心、そして地位を脇に置き、真実を受け入れ、彼らから批評と指示を受け入れて過去の過ちを繰り返さないようにするべきなのです。こうしてのみ、私たちは神の御心が私たちの内で確実に実行されるようにすることができます。

例えば、私たちは誰もが傲慢な性質を持ち、人々よりも高い地位にいることを楽しみ、常に働きや説教において自慢げに話しをして自己顕示し、人々に自分たちを尊敬させ、崇敬させようとします。この結果、兄弟姉妹たちは人間に耳を傾けることしか学ばず、遭遇すること全てにおいて人間に従うため、彼らの心には神が宿れる場所がありません。このような教会はとっくの昔に神の御導きを失っているので教会の働きは全てが混乱した状態にあり、何の結果も得られず、私たち自身も頻繁に壁にぶつかって失敗に苦しんでいます。この時、私たちは神の前で素早く静まり、自らを知るために自らの思考と考えを省みて、自分の言葉と振る舞いを知り、神の御言葉による裁きと刑罰、そして暴露と取り扱いを受け入れるべきなのです。これより、私たちは、「私たちは神に仕える機会を利用して自らを褒め称え、自らの証言をし、名誉と地位を手にするために自分たちの欲望を満たすことを追い求め、人々を私たちの前に導いている。私たちがやっていることは、人々を求めて神と争い、神の選ばれし人々を操って自分たちのものにするということであり、私たちは神が見下され、忌み嫌われる反キリストの道を歩んでいる。私たちは悔い改めなければ、神の性質を害し、神から罰を受けることになる」、ということが明白に分かります。私たちは、問題の深刻さを知った後すぐに悔い改め、神に告白し、肉に背くことを実践し、私たちの働きや説教において意識的に神を褒め称え、神の証言をし、忠実に業務をこなし、誠実に振る舞うべきであります。さらに、私たちは神と適切な関係を築くことに注意を払い、神の御心と任務を常時心に留め、神の御心が妨害されることなく実行されることを保証する目的でのみこの人生を生きるべきであります。このように誠実に悔い改めていれば、主は徐々に私たちが正しく業務を行う道を歩むよう導いてくださるでしょう。

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