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聖書の中のイエスキリストがどのように再来するかについての預言を正しく解読する

終わりの日に裁きの働きを行うべく神が受肉され人の子になられたとあなたがたは証ししていますが、大多数の宗教界の牧師と長老たちは、主が雲に乗って来られると主張し、次の聖句をもっぱらこの根拠にしています。「…イエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう。」(使徒行伝 1:11)「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目…は、彼を仰ぎ見るであろう。」(ヨハネの黙示録 1:7)さらに、宗教界の牧師や長老たちは雲とともに来ない主イエスは誰であろうと偽物であり、拒否しなければならないとも教えています。この見解が聖書に適合しているのか否か私たちにはわかりません。このような理解は正しいのですか。正しくないのですか。

回答

雲に乗って来られる主を待ち望む時は、人間の考えや想像に頼ってはダメです。パリサイ人はメシアの到来を待つにあたり、間違いを犯しました。まさに人間の考えや想像をもって、主イエスを測ろうとしたのです。最後には主イエスを十字架に磔にしてしまった。これが事実ですよね?主の到来を待つのは、それほど単純なことでしょうか?もし主が戻られ、肉の主イエスがなさったようなやり方で、人の間で働いたとしましょう。我々が認めなかったら、パリサイ人がしたように、やはり彼を裁き、彼を非難し、もう一度磔にするでしょうか?その可能性があると思いますか?主イエスは再来することについて多くを語ったが、あなた方は主は雲に乗って来られるというその預言のみに固執し、他の預言を探究していません。これでは、主に見捨てられてしまいますね。聖書に書かれた預言は「雲に乗って降臨される」というもの以外に、主は盗人のように、ひそかに来られるというものも多くあります。例えば、黙示録16章15節「見よ、わたしは盗人のように来る。」マタイ25章6節「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と」黙示録3:20「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」これは、神が人の子として肉となり、ひそかに降臨されることに言及しています。「盗人のように」ということは、静かにひそかにという意味です。人々は彼を見たり、聞いたりしても、神であることが分かりません。その昔、主イエスがそうなさったように、外からは、主イエスはただの人の子であり、誰も神であると知らなかった。なので、主イエスは「盗人のように」という例えを使って説明したのです。とてもすばらしい例えですね!真理を愛さない者は皆、肉となった神が、いかに多くの真理を表したとしても受け入れません。その代わり受肉した神のことをただの人として扱い、非難し、見捨てるのです。なので再臨について、次の預言をしました。「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17:24-25)主の預言にもとづくとその再臨は「人の子の再来」となります。「人の子」とは、受肉した神のことを意味しています。復活した主イエスが霊的な体として降臨することとは違います。なぜでしょうか?もしそれが雲に乗って降臨する霊的な体のことであれば、世界は衝撃を受けるでしょう。誰もが地にひれ伏し、抵抗はしません。再臨の主イエスはそれでも苦しみ、この時代から捨てられますか?ですから、「人の子としての再来」であり、「盗人のよう」だと預言したのです。現実には、それは神が受肉し、ひそかに人の子として来られることを意味しているのです。

では、人の子が神の働きをなすことと、神が雲に乗って現れることはどう関係しているのでしょうか?この過程には何が関わっているのか。簡単に語ってみます。終わりの日に、神が受肉し、ひそかに人間の間に降臨して語られ、神の家から始まる裁きの働きをなさいます。神の声を聴き、その御座の前に戻る者たちを完成させます。そして彼らを勝利者の一団とされます。それから、神は大災害をもたらし、終わりの日の神の裁きを受け入れない者たちを精練し、罰するのです。その後、神は雲に乗り、すべての人の前に姿を現します。これで、黙示録1章7節の預言は完全に果たされます。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」主が雲に乗り来られる時、彼を刺した者も、彼が見えるのでしょうか?彼を刺した者たちとは、一体誰なのでしょうか?このように、主イエスを磔にした人たちだという意見もあります。本当にそうでしょうか?その人たちは、ずっと前に神に呪われ、なきものにされたはずです。現実には、彼らは、終わりの日に、受肉された神が働かれているときに、神の声を聴かず、全能神を非難した者たちなのです。彼らは、自分たちが非難した全能神が、待ち望んだ救い主イエスであることを知るのです。胸をたたき泣いて、歯ぎしりをしても、その結果は懲罰しかありません。神の声が聞ける賢いおとめたちだけが、主の再臨を迎える機会を持ち、神の玉座の前で子羊の宴に参加し、神により勝利者として完成されます。これによって、黙示録14章4節の預言は果たされます。「彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。」しかし、主は雲に乗ってくると思い込み、終わりの日の神の働きを探究しない者は、愚かなおとめたちと見なされます。特に全能神に激しく抵抗する者は、終わりの日における神の働きにより正体が暴かれるパリサイ人や反キリストたちです。彼らは皆、神を再度磔にしました。彼らは大災害に遭遇し、懲罰を受けるでしょう。

パリサイ人はどのようにして、メシアの到来を待っていたのでしょうか。主イエスを十字架につけた理由と併せて見てみましょう。当初、ユダヤ教のパリサイ人はメシアについてさまざまな考えをもっていました。彼らは聖書の預言を見ました。「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にある」(イザヤ書 9:6)「しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちから,わたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。」(ヨエル書 5:2)聖書にある預言の言葉の数々に加え、メシアの到来に関する長期的空想や推論にはこうあります。パリサイ人は、主は必ずメシアと呼ばれ、裕福な家庭に生まれると決めつけていた。さらに、彼はダビデのようであり、イスラエルの王となり、ローマ政府の支配から解放してくださる。殆どのイスラエル人はこのように考えていたでしょう。しかし、神は彼らの考えや想像に沿って、これらを実現しなかったため、パリサイ人は主イエスに対して、あらゆる言い掛かりをつけようとし主イエスを非難しました。その当時、主イエスは多くの真理を表し、多くの奇跡を働き、神の権威と力を十分に示しました。パリサイ人は主イエスの言葉がいかに深淵で、彼の権威がいかに偉大でも無視しました。彼らが持つ考えや想像にそぐわない限り、また裕福な家に生まれておらず、外見も質素で威厳がないとし、彼の名前がメシアでない限り、彼らは非難し抵抗しました。彼らの真理を憎む本性ゆえに、彼らは真理を表し、贖いの働きをなした主イエスを最後には十字架につけてしまったのです。パリサイ人は忌まわしいですか?呪われるべきですか!主イエスに抵抗し、非難したパリサイ人の罪は、真理を忌み嫌う彼らのサタン的な本性を完全に暴露しました。彼らの心は、メシアにより罪から救われることを心から願っていたわけではありません。では、何を期待したのか?彼らはユダヤの王によって、ローマ政府の支配から切り離され、苦しまなくてもすむことを期待したのです。神を信じ、メシアの到来を期待したのは、彼らの個人的欲望を満たし、地位を守りたいがためだけでした。メシアの到来を待つにあたり、パリサイ人は何の間違いを犯したのか。なぜ彼らは神により呪われ、罰せられたのか。本当に考えさせられます。神の働きを行う主イエスに、パリサイ人はなぜ抵抗し、非難したのでしょうか。パリサイ人の本性がどう示されていますか?神の出現を待ち望む人々は皆この問題を理解すべきです!こうした問題を見抜けなければ、再臨の主イエスを迎えるにあたり、我々もパリサイ人と同じように、神に抵抗することになる。

パリサイ人はどのように、メシアの到来を待ちましたか?なぜ彼らは主イエスを十字架につけたのでしょうか?これらの質問の根源は一体何でしょう?これから全能神が仰ることを見てみましょう!全能神は言われます。「あなたがたはパリサイ人がイエスに逆らったことの根源を知りたいか。あなたがたはパリサイ人の本質を知りたいか。彼らはメシアに関する空想に満ちていた。さらに、彼らはメシアが来ると信じていただけで、いのちの真理を求めなかった。だから今日になっても未だに彼らはメシアを待ち続けている。いのちの道に関して何の認識もなく、真理の道がどのようなものかも知らないからである。これほど愚かで頑固で無知な人々が、神の祝福を得ることなどあり得ようか。彼らがメシアを見ることなどできるだろうか。彼らは聖霊の働きの方向を知らなかったために、イエスの語った真理の道を知らなかったために、さらにはメシアを理解しなかったためにイエスに敵対した。彼らはメシアに会ったことがなく、メシアとともに過ごしたこともないために、彼らはみなメシアの名前をむなしく守りながら、どのようなことをしてでもメシアの本質に逆らうという過ちを犯した。これらのパリサイ人は本質的に頑固で、傲慢で、真理に従わなかった。彼らの神への信仰の原則は、『どれほど説教が奥深く、どれほど権威が高かろうとも、あなたがメシアと呼ばれない限り、あなたはキリストではない』というものである。これらの見方は不合理でばかばかしくないであろうか。」(「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より)全能神の言葉を読み、メシアを待つにあたり、主イエスに対するパリサイ人の抵抗の本質と原因が明らかになりました。では、主の再臨を迎えるにあたり、もし人が想像だけで、主が雲に乗って戻ることだけを待ち、真理の追求や神の声を聴くことをやめたら、パリサイ人のように、神に抵抗する道を歩んでいることになるのではないでしょうか。彼らの結末はどうなりますか?皆さん理解なさったようですね。

全能神の国の福音は中国本土中に20年以上かけて広がり、様々な宗教や教派に広がっています。この間、中国共産党政府の暴虐な抑圧や取り締まり、および共産党系メディアの宣伝活動が合わさり、全能神は今のように誰もが知る名前となったのです。後に、全能神が表したすべての真理、全能神教会が作った様々なビデオや映画は段々とネット上で公開され、世界に広がっています。全能神教会の多様な証しの方法につき、宗教界の人々は皆、ご存知だと思います。多くの人が神は来られたと証しています。主イエスの預言を成就しているのです。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)宗教指導者や長老たちは、どうして終わりの日における全能神の働きを非難し、抵抗するのでしょうか?聖書には主の再臨に関する預言が多くあります。彼らはなぜ主が雲に乗り降臨するという預言に、固執するのでしょうか?彼らはなぜ主の再臨についての証を求めようとしないのでしょうか?全能神が多くの真理を表していることを知り、神の働きの現実を見ているのに、なぜ終わりの日の神の働きに抵抗し、自分たちの考えに執着するのでしょう?彼らは果たして、真理を愛し主の到来を待ち望んでいるのでしょうか?彼らは賢いおとめでしょうか?愚かなおとめでしょうか?彼らが賢いおとめであり、主の到来を待ちわびていれば、なぜ神の声を聞き、神の国の福音が広まっていると知っても、まだ頑固に非難し、抵抗をするのでしょうか?彼らは主を待ちわびているのに、これが誠実さの現れなのでしょうか?これは主の再臨を喜ぶ彼らの真の表現なのでしょうか?率直に言えば、結局彼らの信仰と主イエス再臨への切望は偽りで、天国に入りたいという切望は現実なのです!真理を追求し、命を得るために主を信ずるのではなく、真理を得て、罪から逃れるためでもありません。彼らの希望は何なのか?降臨された主に天国に連れて行ってもらうこと、肉の苦しみから逃れ、天国の祝福を享受すること、これが彼らが神様を信ずる本当の目的です!この理由以外に、人類を救う真理を表す全能神を、彼らが拒絶する理由があるでしょうか。考えてみましょう。ある人が真理を愛し、神の出現を待ちわびているならば、主が来られたと聞いたときに、どうするでしょうか?耳を傾けず、状況を見ず、接触を避けるでしょうか?それを盲目に否定し、非難し、抵抗しますか?ないでしょう。神の出現を心から待ち望み歓迎する人ならば、真の光を待ち望み真理と正義の支配を願うでしょう。彼らは神が到来して人類を救い、人々が罪から完全に逃れて清められ、神のものとされる手助けをすることを望んでいます。しかし、主が雲に乗って来られることだけを待ち、全能神を否定し、拒む者もいます。ことに、自分の地位と生活を守るために、全能神を猛烈に非難し、抵抗する宗教指導者たちは、真理を軽蔑し、真理を憎んでいる者たちと言えます。彼らは皆、終わりの日の神の働きにより明らかにされた未信者や反キリストです。受肉された神が、その救いの働きを終えた後は、これらの人々はめったにない災害に陥り嘆き、歯ぎしりをするでしょう。そして、雲に乗って公に現れる主についての預言は、完全に成就される。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」(ヨハネの黙示録 1:7)

全能神の言葉を一緒に見ていきましょう。「真理を受け入れず白い雲に乗ったイエスの再臨を盲目的に待つ人々は、確実に聖霊を冒涜することになり、彼らは滅ぼされる種類である。あなたがたは単にイエスの恵みを望んでおり、この上なく幸せな天国を楽しみたいだけであるが、イエスの語る言葉に従ったことはなく、肉に戻ったイエスが表した真理を受け入れてこなかった。あなたがたはイエスが白い雲に乗って戻るという事実と引き替えに何を差し出すのか。あなたがたが繰り返し罪を犯しては何度もその罪を告白するという誠意か。白い雲に乗って戻ってくるイエスへの捧げ物としてあなたがたは何を差し出すのか。自らを称賛する長年の仕事という資本だろうか。あなたがたは戻ってきたイエスに信用してもらうために何を差し出すのだろうか。それはあなたがたの、いかなる真理にも従わない傲慢な本性だろうか。

…わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、滅ぼされる部類であることは確かである。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の子孫であり、天使長の末裔であり、永遠の破滅を逃れることのできない部類である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることをあなたは知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。『白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ』という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。」(「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より)

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