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なぜわたしはいつも主に祈りますが、主の返事を得られませんか

信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さんへ:

こんにちは。わたしはこの頃、家で常にささいなことでわけもなく怒り、しかも夫、子供の欠点が多いのだと思っています。すると、わたしは主に祈って、主にわたしの心を落ち着かせ、夫と子供の悪い癖を変えてくださるように求めます。しかしなぜわたしが主の返事を得られなかったのですか。

井上 菜々子

2018年11月6日

井上さんへ:

悲しまないでください。そうなるのはおもに、わたしたちが祈りの原則を把握していないからです。実は多くの時、わたしたちは祈る中で言いたい言葉を主に言っただけで、自分がもう主に祈ったと思ってしまいます。ところが、わたしたちは主がわたしたちのこのような祈りが好きかどうかを知りません。それは、わたしたちがある人と接触するのと同じです。わたしたちがこの人と話したいなら、まずこの人について少し知らなければなりません。それでこそ、わたしたちはどう話せばこの人と正常にコミュニケーションできるかを知ることができます。そうでないと、わたしたちが目標なしに話せば、逆効果を招くかもしれません。実は、本当の祈りには、おもに三つの面があります。わたしたちがこの三つの面で努力し、この三つの方法で訓練し、実行しさえすれば、きっと主の返事を得られます。

一、祈るには、神の言葉から神の意志を求める必要がある

コロサイの信徒への手紙第3章16節にこう書かれています。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩篇と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」。主につき従う上で最も重要なのは、神の言葉に時間と精力をかけ、神の言葉を祷読することです。わたしたちはまずあらゆることで神のわたしたちに対する要求が何か、神の意志が何かを知り、そして神の意志にしたがって実行し、祈るべきです。そうしてこそ、わたしたちの祈りは主に聞き入れられることができます。目的なしに祈り、或いは言いたい放題のことを言ってはなりません。そのような祈りは主に聞き入れられません。そのような祈りには、主に対する畏れ敬いがないからです。それは、わたしたちがある尊敬すべき人と話すのと同じです。この人と話し、コミュニケーションする前に、わたしたちはこの人の思いを理解する必要があります。ひたすらわたしたちの考えによって彼と話してはなりません。だから、わたしたちが神を畏れるなら、わたしたちの祈りは神の言葉を理解するという基礎の上に築かれなければならず、つまり、わたしたちはわたしたちに臨む環境と困難の中で神の意志を求め、神がこの時点でわたしたちの上で何を成就したいかを探求しなければなりません。わたしたちが神の言葉を通して神の意志を理解したなら、わたしたちが神に祈る時、神はわたしたちの祈りを聞き入れられます。それは聖書「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタ6:33)と書かれているとおりです。

二、祈るには、霊と真理をもって神を礼拝する必要がある

ヨハネによる福音書第4章23節から24節でこう書かれています。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。この要求は非常に肝心です。わたしたちがわたしたちの祈りが主に良しと認められることを望むなら、わたしたちは誠実な心を持たなければならず、祈る前に心を落ち着かせなければなりません。わたしたちが神に祈る過程は神を礼拝する過程でもあるからです。一方では、わたしたちは主に祈る前に、神の言葉を読むことによって神の心を理解するべきです。神の心を理解したら、また神がこの時点でわたしたちの上で成就したいこと、神のこの時点の意志に応じて祈ります。そうすれば、わたしたちは容易に神の返事を得られます。これもわたしたちが霊と真理をもって神を礼拝する方法の一つです。もう一方では、わたしたちは祈る時にどのように言葉を言えば理知的に祈ることができるかを探究するべきです。さもなければ、わたしたちは祈る時、空論を説き、大きな口をたたき、気ままに神に約束し、或いは神を債務者だと見なしてひたすら神から要求します。このように祈るのでは、主の返事を得られません。神の心を理解しない時、わたしたちがわたしたちの祈りが主に喜ばれることを望むなら、自分の心の中の考えを隠したり、ひたすら神にわたしたちのこの時点の環境を変えることを要求したりすることなく、心を落ち着かせ、神に本音を語り、探究し、服従する心を抱くべきです。このように祈れば、主の返事を得られます。主はわたしたちのこの誠実な心のゆえにわたしたちに啓き、わたしたちを導かれるはずです。

三、神に対して信仰を持つべきだ。主の啓きには時があるからだ。

実は、主はいつもわたしたちの想像どおりに返事しません。神の知恵はわたしたちが計り知ることができません。ある時、わたしたちが主に祈ると、主はすぐにわたしたちを導いて主の意志を理解させます。そうなると、この時点の困難は解決されます。しかしある時、ある見透かせないことが臨んだ後、どう実行すればいいか分かりません。わたしたちが主に祈りましたが、でも主の返事を得るには数日、或いはもっと多くの日数がかかるかもしれません。だからこのような時、わたしたちはがっかりしてはならず、続けて主に祈って主の意志を求めるべきです。実は、多くの時、神はわたしたちが神に対して信仰を持つかどうかを試します。

井上さん、またわたしのこの間の経験をあなたと分かち合いましょう。先日わたしも家でわけもなく怒り、いつも家の人の欠点に目を向けました。自分の毎日の仕事が忙しいのに、夫がわたしを思いやらず、また家事を手伝ってくれないと思うと、腹を立てました。そして、わたしは主に祈りました。「主よ! 子供のわたしは、あなたがこのような環境の中でわたしにどんな学課を学ませ、どんな真理を生かし出させるかを知りません。わたしは腹を立てています。夫の欠点ばかり見ました。だから、常に夫を変えようとします。主よ! わたしに啓いてください。わたしはあなたの意志にしたがって行ないたいです」と。祈った後、わたしは主イエスがこう言われるのを思い出しました。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(マタ7:3)。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる…」(マタ6:14)。主の言葉に啓かれることによって、わたしはこういうことが分かりました。神はわたしがいつも夫の欠点に目を向けることを好まず、わたしがこのような環境の中で自分の欠けたところを認識することを学び、人を大目に見、人を赦すことも学ぶと望まれます。しかしわたしは夫に難癖をつけ、夫が悪い、夫がわたしを気にかけないといつも思うので、サタンに愚弄されました。わたしは夫がわたしを気にかけないと文句を言うが、実は夫も最近残業し、非常に疲れていたのです。でも、わたしはどのように夫を気にかけるかを考えたことがなく、ただわたしが疲れているので、夫がわたしを気にかけるべきだと思っていただけです。わたしのこのような考えはサタンの利己的な本性から出るものです。これらが分かった後、わたしは従順な祈りをしました。「主よ! 夫が悪いのではなく、わたしが悪いのです。わたしの他人に対する要求が多すぎ、環境の中でどのように自分を認識するか分からず、いつも夫に難癖をつけます。今、わたしはこれらが分かりました。わたしはあなたの言葉を実行します。もう夫の欠点に目を向けず、他人を大目に見ます。神よ、真理を実行するための信仰と力をわたしに加えてください……」と。そして、驚くべきことが起こりました。このように祈った後、わたしは夫を大目に見る信仰を持つようになり、それらの不平不満はなくなりました。こうしてわたしは、主の言葉を読むことによって正確な祈りをすることは非常に重要だと分かりました。

信仰ステーション

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