Read more!
Read more!

私は祈りの意義と、神様がどのような祈りをお聞きになるかを理解している

信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さん、

 こんにちは!少し前、姉が私に主イエスの福音を説いてくれました。教会に加わったあと、毎日主に祈る必要があると言われたのです。そのとき、私は混乱しました。どうして毎日主に祈る必要があるのでしょうか? 神様は私の祈りをお聞きになるでしょうか? こうした疑問を私と分かち合ってくれませんか?

林麗

2021年6月10日

姉妹林麗、

 こんにちは! 主のお恵みとご慈悲のおかげで、私たちは主の家へと戻るために世界から選ばれました。私たちは主の新しい信者なので、なぜ祈る必要があるのか、神様が私たちの祈りをお聞きになるかどうか、理解していないのは当然です。私も最初はあなたと同じように混乱していました。その後、兄弟姉妹とのやりとりや助けを通じて、祈りの意義を理解し、神様の御心にかなうためにどう祈るべきかを知りました。それからというもの、私の困惑はきれいになくなりました。ここで私自身の理解を少しお話ししましょう。それがあなたの助けになることを願っています。

 最初に、なぜ神の信者は祈らなければならないのかをお話ししましょう。私はインターネットで一つの文章を読みました。

神が人類を創造し、霊を与えた後、もし彼らが神を呼び求めなければ、彼らは神の霊と繋がることができず、したがって天からの「衛星テレビ放送」は地上で受信することが不可能であるように神が命じた。神がもはや人々の霊の中にいなければ、他のものが入り込める空席が残され、そこにサタンが入り込む機会をつかむ。人々が心から神と繋がれば、サタンはただちにパニックに陥り、大急ぎで逃げ出す。人類の叫びによって神は彼らに必要なものを与えるが、初めから彼らの中に「住む」ことはない。神は彼らの叫び求める声によっていつも援助するだけで、人々はその内面の力から忍耐力を得るので、サタンは思うままに人の心に入って「遊ぶ」ことはしない。このように、人々が常に神の霊と結びついていれば、サタンは混乱を引き起こしに来ようとはしない。サタンが混乱を起こさなければ、人々のすべての生活は正常であり、神はまったく妨害なしに彼らの中で働く機会を得る。こうして、神が行いたいと思うことは人間を通して達成することができる(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」「第十七章」)

その文章から、神様の信者が祈らなければならないのは、神様を呼び求め、神様との正常な関係を築くにあたって、祈りがそれを実現する方法の一つだからだ、ということがわかります。私たちが心から神様に祈り、心を開いて自分たちの困難や困惑を神様に訴えるとき、神様は私たちの真の心をご覧になり、私たちの欠点や求めに応じて私たちを啓発し、困難から導いてくださいます。サタンは普通、神様と私たちの関係を破壊するため、様々な環境や人々を利用して私たちの心をかき乱し、私たちを悪い状態に陥れ、霊的に無力感を覚えさせます。こうしたとき、私たちが真心を込めて神様に祈り呼び求めるなら、神様は私たちを導いてサタンの罠を見破り、神様の御心を理解できるようにしてくださいます。こうして、サタンは私たちに影響を及ぼす機会を持たなくなります。そして私たちは正常な状態に戻り、聖霊の働きを獲得し、神様の存在を享受するのです。加えて、祈りは私たちの信仰を高めることができます。とりわけ、試練や苦難が降りかかるとき、私たちは祈りを通じて神様への完全な信仰を持ち、神様の慈愛と素晴らしさを感じ、かくして神様を愛し満足させる心を生み出せます。たとえば、無神論者の中国共産党による逮捕や拷問に直面したとき、真に主を信じる多くの兄弟姉妹はまったく無力感を覚えたでしょう。しかし、信仰と強さを求めて神様に祈ることで、ついに中国共産党の拷問に打ち勝ち、神様の証しをしました。ゆえに、私たちキリスト教徒一人一人が祈りを学ぶことはとても重要なのです。一定の期間祈らなければ、私たちは心の中に神様の居場所を持たず、そのことは私たちが神様との関係を断ち切ったことを意味します。結果として私たちは聖霊のご指導とお導きを失い、サタンの領域に戻り、暗闇に陥ることになるでしょう。神様が私たちを祈らせるのは、私たちがいかなる時も神様のご配慮と保護の下で暮らせるようにするためです。これが私たちに対する神様の愛なのです。

 神様は本当に私たちの祈りをお聞きになるでしょうか。それは、私たちが心を込めて誠実に神様を崇めているかどうかによります。主イエスはかつて言われました。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネによる福音書4:23-24)。この御言葉から、主が信実の本質を持っておられること、神様が誠実な人を好まれることがわかります。よって、私たちは祈るときに心から話し、自分の本当の考えや困難を神様に伝え、神様の御心と啓発を探し求めるべきなのです。こうすることでのみ、神様は私たちの祈りをお聞きになります。これとは対照的に、神様を騙すためにきれい事を言ったり、祈りのたびに同じ決まり文句を繰り返すだけなら、あるの言葉を暗唱するためだけに神様の御前へ赴くのと一緒です。そのように祈るなら、私たちは不誠実であり、神様への畏れを持っていません。たとえとても素晴らしい言葉を述べたとしても、それらは本音ではありません。神様は私たちの祈りを受け入れず、ましてお答えになることはないでしょう。例として、最初期のファリサイ人による祈りを取り上げましょう。彼らは、神様に忠実に仕え、ユダヤの人々を神様の前に連れてきますと祈りましたが、実際には自分自身のたくらみを実行し、自分たちを崇めさせるためにユダヤの人々を連れてきました。このことから、ファリサイ人が完全に偽善者であることがわかります。よって、私たちは正直な心をもって神様に祈り、自分の心の中にあることを神様に語らなければなりません。そうすることでのみ、神様は私たちの祈りを聞いてくださいます。

 一方、私たちの祈りの内容が神様の御心にかなっていれば、神様は私たちの祈りに答えてくださいます。例として、聖書に記録されているソロモン王の話を取り上げましょう。ソロモン王が各時代を通じて最も賢明な王になれたのは神様の祝福のおかげです。国家の王として、ソロモン王は自分の肉体のためにお恵みや祝福を求めたり、祈るときに神様と取引したりはしませんでした。その代わり、神様に祈り、神様の民を統治する助けを求めたのです。ソロモン王の祈りは神様への配慮からなされたものであり、神様を満足させるためのものでした。こうした祈りは神様に受け入れられ、認められます。神様はソロモン王に十分な知恵を授け、最も豊かで賢明な王となされました。

 今日、私たちの祈りも同じようであるべきです。私たちの祈りが神様の御心とお求めにかなっていれば、神様は聞いてくださいます。主イエスはこう言われました。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイによる福音書6:33)。神様はご自身の御心にかなう祈り、心から神様に服従する聡明な人々の祈りをお聞きになります。では、どのような祈りが神様の御心にかなっていて、どのような祈りがかなっていないのでしょうか。ここでいくつかの例を簡単に取り上げます。神様の御言葉が理解できないとき、私たちは神様の御心とお求めを理解できるよう、聖霊の啓発とお導きを探し求めるべく祈り、神様の御言葉の真理を理解するよう努めるべきです。教会で真に神様を信じる兄弟姉妹が消極的になったり弱くなったりすれば、神様の御心を理解して消極的な状態を克服するよう、私たちは祈ります。こうした祈りは神様の御心にもかなっています。兄弟姉妹の誰かが迫害などの困難に直面しているとき、私たちは神様に祈り、彼らが神様の証しをするようお導きになることを求めます。それは、神様が彼らを通じて栄光を得られるようにするためです。こうした祈りは神様に認められます。私たちは様々な苦難や試練に見舞われたとき、真心を込めて神様に祈り、私たちをお導きになり、不満を言わせないよう神様に求めるべきです。それは、 私たちが神様の証しをできるようにするためです。私たちは、被造物として自分の本分を尽くし、神様の福音の働きを広める能力を求めて祈るべきです。神様の御心を知るため、神様を満足させるべく真理を実践するため、そして神様の御心を実行するために行なわれるこれらの祈りはすべて神様に認められ、答えられます。

 神様のお答えを得られない祈りはどのようなものでしょうか。たとえば、大金を稼げるように祈る人がいます。よい仕事を見つけられるよう神様に手助けを求める人もいれば、ふさわしい結婚相手を用意してくださるよう神様に祈る人もいます。こうした祈りは自分自身の利益のため、あるいは自分の肉体を満足させるために行なわれるものなので、どれも神様の御心にかなっていません。神様の働きは人間をお救いになることに集中しています。祈ることが私たちの救いと矛盾し、何ら役立つものでなければ、神様に認められません。例を挙げると、私たちはこの世でより多くの金を得るために、自分を祝福してくださるよう神様に祈ります。こうした時、神様が私たちの祈りを聞き入れて百万長者にしてくださるなら、私たちの心は金で占められるでしょう。私たちはそれでも神様を信じる心を持つでしょうか。しまいには金のために神様を裏切るでしょう。ゆえに、神様はこうした祈りをお聞きになりません。

姉妹林麗、私たちの神様は信実です。私たちの祈ることが神様に受け入れられる限り、神様は答えを与えてくださいます。はるか昔、神様はこうおっしゃったからです。「すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」(マタイによる福音書7:8)。神様の御言葉のこの一節から、神様の信実と素晴らしさがわかります。私たち全員が神様のお約束と祝福を得られるよう、神様は望んでおられます。

 他に質問やわからないことがあれば、いつでも私たちに連絡してください。一緒に神様を探し求めましょう。神様の御言葉のお導きがあれば私たちの問題はすべて簡単に解決できると、私は信じています。

Share