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あなたは神を信じますか?それとも権力を信じますか

私の抱える困惑

私は主イエス様を信じるようになった後、神を信仰することの理解を得ました。しかし、世間のトレンドの影響を受けていた私は自然と、「何かについて意見をしたり、それが正しいのか、そうでないのかと判断する前に、私は先ず著名人や権力者たちがどういう意見を出しているのかを確認してから彼らの意見の方向性に従う」、という考え方をしていました。そして、私は自分が正しく、こうすることは他の大勢の人たちもやっているのだから比較的安全なことだと思っていました。真の道と偽の道を見分けるといった神への信仰に関する事柄についても、私は同じことをしていました。

私は、母が初めて私に世の終わりの全能神の働きを説いてくれて、「私たちが待ちわびていた主イエス様が戻られたわ」、と言った時のことを覚えています。これに対する私のリアクションはというと、「これは本当かしら?お母さんは田舎の女性で知識も見識もないからなあ」、といったものでした。今彼女は全能神を信じていて、全能神は主イエス様の再臨だと私に言いますし、彼女はそれに対してとても熱心です。私の母は混乱していて、何の見識も持っていないのかもしれません。主イエス様の信者たちが通う教会は数多く存在し、それらはとても大きく壮大なものです。そこの説教師たちは神学校を卒業し、長年に渡って説教をしている経験豊富な牧師たちです。主は彼らにも伝えておられないのに、どうして私たちが主にお会いできるというのでしょう?これは単なる幻想に過ぎません。それに、主イエス様が本当に戻っておられるのなら、長年に渡って主に仕えてきた牧師と長老たちはそれを知っておられるはずですが、どうして彼らは知らないのでしょう?全能神が本当に主イエス様の再臨であるなら、どうして牧師と長老たちはそれを認めないのでしょう?私はこれが理解できませんでした。これ故に、母が主イエス様の再臨について私に証した時、それは真理と一致しているように感じましたが、依然として疑念を振り払えなかった私はそれを完全に受け入れることができませんでした。その後、母はある姉妹を私の自宅に連れてきて私と交流してもらい、私は彼女に自分の抱えていた困惑を説明しました。

答えを模索する

私は姉妹にこう尋ねました、「あなたは主イエス様は肉に戻られ、新たな働きをされたと言っていますが、それがもし本当なら、長年に渡って主に仕えてきた教会の牧師と長老たちはこれを既に知っているはずだと思うのですが。あなたがこれを説いても、どうして彼らはそれを認めないのですか?」

姉妹はこう交流しました、「ご存知の通り、神の本質は義であり、神を誠実に求める者たちは誰もが神の御啓示を受けます。私たちは誰もが、「遠い昔から、神は新しい働きを開始される時、先ずは誠実で、かつ自分の観念を脇に置いて神の新しい働きを受け入れられる者たちにそれを明らかにされましたが、それに反して、神は古い観念に固執し、傲慢かつ独善的な者たちからは御姿を隠しておられた」という事実を知っています。主イエス様はこう仰りました:「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。」(マタイによる福音書11:25)。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。 」(マタイによる福音書23:12)。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 … 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。(マタイによる福音書5:3、6)。これらの節から、神は謙虚で、真理を求めて神に従う意思のある者を愛されることが分かります。律法の時代に、人々は皆、メシアの来臨を切望していました。人間の観念によると、メシアが来られる時は、神に仕え、ヤーウェ神の律法を説教していた祭司長、律法学者、そしてパリサイ人が最初にそれを知るものとされていました。しかし、主イエス様が来られた時、神は最初に東方の三博士と羊飼いにそれを明らかにされたのです。この祭司長、律法学者、そしてパリサイ人は主がメシアと呼ばれていなかったことを理由に、頑固に自分たちの観念に固執し、主を拒否していたのです。彼らは神を知らなかった盲目な者たちであり、最終的には主イエス様を十字架に釘付けにし、凶悪な罪を犯したのです。神は義なる御方であり、誰かを偏愛されることはありません。私たち1人1人が、謙虚で従順な心を持ち、自分の観念を脇に置くことができる限り、神の御啓示を得ることができるのです。

世の終わりの最後に、主の再臨である全能神は御言葉を表しながら教会を起点に裁きの働きをされました。宗教的指導者たちは神が肉に戻られて新しい働きをされたと知った後、真理を切望してそれを求めた僅か数人のみが神の御啓蒙と御啓示を受けて世の終わりの全能神の働きに従うことができました。しかし、主を心から信仰していた兄弟姉妹たちはそれぞれの観念を脇に置くことができたため、その大多数が全能神の御言葉を耳にした後、神の御声に気が付き、神の御座に立ち返ることができました。これについて、主イエス様はこう仰りました:「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書10:27). そして全能神はこう仰ります:「ある人々は、聖霊の働きがあるところには神が現れると何の考えもなく思っている。または、霊的な指導者がいるところに神が現れると思っている。あるいは、人々の知名度が高いところに神が現れると思っている。そうした考えが正しいかどうかは、今のところは深く考えないでおこう。このような問題を解説するには、まず目的をはっきりさせる必要がある。私たちが探し求めているのは神の足跡である。霊的な指導者を求めているのでもなく、ましてや有名人でもない。私たちがたどっているのは神の足跡である。神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちなのです」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。もし神の現れをその目で見たいと思うなら、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念というものを超越しなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じることは許されない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を持っているわけでもない。人の本分は、探し求め、受け入れ、従うことである。」。この全能神の御言葉から、神は私たちの観念に従って働きをされるのではなく、むしろ神御自身の計画に基づいてされることが分かります。神は地位と評判の高い著名人や聖職に就く人物の前には現れず、むしろ謙虚で真理を求める人の前に現れます。神の信者として、私たちは神が現在お話しになる御言葉だけでなく、聖霊の働きも求めるべきです、なぜなら神の御言葉がある所には、神の足跡があり、神が御姿をお見せになる所には、真理、道、そしていのちがあるからです。私たちは、子羊の足跡について行くことを望むなら、神の働きを求め、それに従うために自分たちの観念を脇に置かなくてはなりません。

裁きに従う

姉妹の交流を受けて、私は、神の働きは原則に基づいており、神は私たち人間の観念と想像に基づいた働きはされないと理解しました。私たちは想像物として、神の働きに従い、神の顕現を求めるべきです。そして、私は全能神の御言葉を読みました。これがその御言葉です:「一部の人々は真理を喜ばず、裁きとなればもっと喜ばない。むしろ、人々は権力と富に喜びを見出すのであり、そのような人々は俗物と見なされる。彼らはもっぱら、影響力を持つ世界中の宗派や、神学校から来た牧師や教師を探し求める。真理の道を受け入れたにもかかわらず、彼らはどこまでも懐疑的で、自分自身を完全に献げることができない。彼らは神のために犠牲を捧げることについて話しはするものの、彼らの目は偉大な牧師や教師に注がれ、キリストは無視されている。彼らの心にあるものは名声、繁栄、栄誉ばかりである。彼らは、そのような貧弱な人がそれほど多くの者を征服することができ、そのような平凡な人が人々を完全にすることができるなどと全く信じない。彼らは、塵と糞の中にいるとるに足りない人々が神に選ばれているとは信じないのである。彼らは、もしそのような人々が神の救いの対象であれば、天と地がひっくり返り、すべての人間が大笑いするだろうと信じている。彼らは、もし神がそのような取るに足らない者たちを完全にすると決めたのであれば、先に挙げたこのような偉大な人たちは神自身になってしまうと信じている。彼らの考え方は不信仰によって汚染されている。実際のところ、不信仰どころか、彼らは、ばかげたけだものである。なぜなら、彼らは地位、名声、権力だけに価値を置く。彼らが重要視するものは大きな集団や宗派である。彼らはキリストに導かれる者のことを全く考慮しない。彼らはキリストに、真理に、そしていのちに背をむけた裏切り者でしかないのである。」「あなたが敬慕するのはキリストのへりくだりではなく、有名な地位にある偽の指導者たちである。あなたはキリストの素晴らしさや知恵を愛さないが、邪悪な世と交わりを持つ奔放な者たちを愛している。あなたは、枕するところもないキリストの苦しみを笑うが、捧げものを奪い取り放蕩な生活を送る屍たちを賞賛するのである。あなたはキリストのそばで苦しむことを望まないが、あなたに肉、文字、支配しか与えない浅はかな反キリスト者たちの腕の中に喜んで入っていこうとするのである。今でもあなたの心は、彼らに、彼らの評判に、あらゆるサタンの心の中にある彼らの地位に、彼らの影響力に、彼らの権威の方に向いているのに、あなたはキリストの働きを受け入れずに反抗と拒否の態度を持ち続けるのである。だから、あなたがキリストを認める信仰を持っていないとわたしは言うのだ。」神の御言葉は、真の道を偽の道から見分けることに対する私の誤った考え方を開示してくれました。私はいつも、強い影響力があって、評判の良い分派はいずれも真の道であると思っていました。私が心の中で称賛していたのは、彼らの評判、地位、そして力であり、私の神への信仰は真理のあり方を求めるためのものではなかったのです。牧師と長老たちの敬虔な振る舞いを見る度に、私の心の中で彼らに対する感心が膨らんで行きました。私は彼らは尊重に値するすぐれた徳を持ち、神から最も認められているに違いないとも感じていました。そして私は彼らと話ができるだけで光栄に感じることすらありました。しかし、私は彼らの貫きと啓示に真理があるのかどうか、幾年にも渡って神を信仰した後、彼らはいのちの性質において変化を遂げていたのかどうか、彼らは神を知っていたのかどうか、そして彼らは神を信仰する正しい道に私を導くことができるのかどうかを見極めることができませんでした。私はとても愚かで、人々を外面的にのみ判断し、それぞれの持つ本質を見極めることができませんでした。これは私が神を信じておらず、心の中では名声、地位、そして力を信じていたことを示していました。私は極めて愚かで、盲目だったのです!

道の発見

その後、私は全能神の御言葉を読んで真の道を特定する原則を理解しました。全能神はこう仰っておられます:「真理の道であるかどうかを区別するには、何よりもまず、そこに聖霊の働きがあるかどうかを見て、その後で、その道に真理があるかどうかを見るのだ。この真理は本来の人間性のいのちの性質である。つまり、神がはじめに人間を創造した時に人間に要求したこと、すなわち、(人間の理知、見識、知恵そして、人間であることの基本的な知識を含む)本来の人間性すべてである。即ち、この道が人間を本来の人間性に導くものかどうかを見極めなければならない。述べられている真理が本来の人間性の現実において必要なものかどうか、この真理が実用的で現実的であるかどうか、また、それは最も時宜にかなったものであるかどうか、といったことを調べなければいけない。もし真理があるのなら、それは人間を普通の現実的経験へと導くことができるはずだ。更に、人間はいっそう正常になり、人間としての理知はより完全になる。人間の肉体における生活と霊的生活とはさらに秩序あるものとなり、喜怒哀楽はより正常なものとなる。これが第二の原則である。もうひとつの原則がある。それは、人間は神についてより多くの認識をもっているかどうか、そのような業と真理を経験することは神への愛を呼び起こすかどうか、その人をより親密に神のもとへ近づけるかどうかということだ。このことによって、それが真理の道であるかどうか見定めることができる。最も基本的なことは、この道が超自然的なものではなく、現実的なものであるかどうか、また、それが人間にいのちを与えるものであるかどうかということだ。もしそうした原則にかなうものであれば、この道が真理の道であると結論づけられる。」。神の御言葉から、私は、それが神御自身の働きであるなら、同時に聖霊の働き、ならびにその中に込められた真理の表れもあり、さらに、それは人間が神をより深く知るように仕向けてくれることを知りました。恵みの時代に、主イエス様は受肉され、十字架に磔にされたことで人類を贖う働きを成就され、慈悲深い、かつ慈愛の性質、ならびに恵みの時代を生きる人々が実践すべき真理をお見せになられました。それにより、人々は多大なる恵みと祝福を授かり、主の信者たち全員が神の性質と偉大なる御力を知ったのです。従って、過去の時代の聖徒たちは迫害と苦難の中で福音を伝導し、その多くは主のために殉教までしましたが、その全ては聖霊の働きが生み出した結果だったのです。世の終わりに、全能神は人間が神を知り、神から救われるために必要な真理を全て表してくださり、神の6000年の経営計画の目的、神の働きの原則、神の働きの3つの段階に関する奥深い真理、人間の将来の終着点など、神の経営計画の奥義全てを開示されました。全能神の働きと御言葉は各宗派と団体を揺すりました。聖霊の働きによる導きの下で、神の御国の福音は中国本土全体に広がりました。今神の御名前と御言葉は世界中の国々と場所にいる人々が探求し調査できるようにインターネット上で公表されています。全能神は世の終わりに義の支配する性質をお見せになり、裁きと清めの働きをされ、人間を清め救う働きを達成されます。全能神教会が製作した映画と動画より、全能神教会の兄弟姉妹たちは神の裁きと刑罰を受け、それによって彼らの人間性、理知、そして貫きは今まで以上に普通になり、彼らの堕落した性質は増々減り、彼らの神に対する知識は増々増え、神を礼拝し、神に従うという彼らのいのちの自然な表れは真なるもので、感動的なことであることが分かります。これは完全に聖霊の働きが起こした結果なのです。これ故に、私は全能神は主イエス様の再臨であり、真理そして真の道であると確信していたのです!神の御指導に感謝します!神の御言葉から、私たちは神の信者として聖霊の働きについて行くべきであり、喉を詰まらせることを恐れて食べるのを諦め、ただ単に座りこんで死ぬのを待つべきではないのだと理解しました。いのちのあり方は実際に探求、調査、そして体験することで得られるのです。神に感謝します!全能神の御言葉の御啓示と御指導がなければ、私は依然として誤った考え方に囚われたままとなり、神の御救いを逃していたでしょう。全ての栄光、全能神にあれ!

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