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ヨブ記感想-発病や苦難もまた神の恵みです

御恵みの話しになると、私たちは普段それを神の祝福と愛に結びつけます。しかしながら、私たちの日常生活は全てが常に順調なわけではありません。病気や苦難に見舞われることがよくあります。そのような時、私たちは反抗的で、抵抗的で、不満げな態度を見せてこう考えます:「主イエス様は私たちに御恵みを与えてくださるのではないのか?私たちは神を信仰しているのに、どうしてこのような病気や苦難に苦しむはめになるんだ?」私たちはこれらを一掃しようと熱心に神に祈りを捧げ、これらを取り除いてくださるよう懇願することがあります。事が改善しないと、私たちは悲観的になって絶望し、弱気で退行的になります。しかし、実際は、発病や苦難もまた神の御恵みなのです。

聖書に出て来る沢山の登場人物の中でも、ヨブのストーリーには感心させられます。ヨブは神を恐れ悪を避けた義なる男でした。彼は神の祝福を多く授かりました。彼には膨大な所有物があっただけでなく、立派な子供たちもいました。しかし、彼が年老いた時、神はサタンがヨブを攻撃することをお許しになられたのです。サタンはヨブの所有物全てと子供たちを奪い、その後、ヨブの体に対しても容赦なしに足の裏から頭のてっぺんまでを腫物で覆い尽くしてしまったのです。殆どの人は理解出来ないかもしれませんが、これは神はヨブに御恵みを与えるのを止めてしまったということなのでしょうか?

神はこう仰られました:「人間に対する神の不変の施しと支えの働きの間、神は自身の心全体と要求を人間に示し、自身の業、性質、そして神であることの全てを示す。神に付き従う中で、人間に必要な身丈にまでさせ、神の幾つもの真理を得ることができるようにすることがその目的である。その真理とは、神により人間に与えられた武器であり、それによりサタンと戦うことができる。これらのものが備わったならば、人は神の試みに直面しなければならない。神は人間を試すための多くの手段や道を持っているが、どれも神の敵であるサタンの「協力」が必要となる。つまり、サタンと戦うための武器を人に与えた後、神は人をサタンの手に渡し、サタンが人の身丈を「試す」ことを許可する。人間がサタンの編隊から脱出できるならば、サタンの包囲網から抜け出して生きていられるならば、試験に合格したということである。だがもしサタンの編隊を離れることに失敗し、サタンに服従してしまうのであれば、試験に合格しなかったということである。神が人間を試す時、それがどのような側面をみるのであれ、神の基準はサタンの攻撃に対して人間がしっかりと証しに立っていられるかどうか、そして、サタンに誘惑されている間に神に背き、サタンに降伏して服従してしまうかどうかである。人間が救われるかどうかは、サタンに勝利してサタンを打ち倒せるかにかかっており、自由を獲得できるかどうかはその人間が神に与えられた武器を自ら取り上げてサタンの束縛から自らを解き放ち、サタンが完全に希望を失ってそれ以上攻撃しなくなるかどうかにかかっている。サタンが希望を失い、ある人を手放すのは、サタンは二度とその人を神から奪おうとはしない、二度と非難したり、妨害したり、気まぐれに苦しめたり攻撃したりしないという意味である。サタンをそのような状況に追い込むことができる人だけが、真に神のものとされるのである。神が人を自身のものとする過程はこのようなものである。」

この神の御言葉から、サタンがヨブに苦難を与えることを神がお許しになられた真の理由が分かります。神が人間をサタンの支配から救う過程こそ、神が先ず人間に真理を伝え、そして人間がその真理を使ってサタンの誘惑に打ち勝つことができるか否かを見るために試す方法なのです。私たちが真理を武器として使ってサタンの起こす様々な誘惑に打ち勝つことができれば、私たちが本当に神に得られたこと、そしてサタンが完全に辱められ負かされたことを証明します。対照的に、私たちが神への信仰と従順を使ってサタンに打ち勝つことができなければ、サタンは決して納得しないでしょう。聖書の中の記録から、ヨブが試練を受ける前、ヤーウェ神はヨブのことを「完全で義人であり、神を畏れ悪を避ける人である」として褒めていたことが分かります。しかし、サタンは彼を非難してこう言いました:「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。 あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。 しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」(ヨブ記 1:9-11)。 「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」(ヨブ記 2:4-5). しかし、ヨブがサタンの誘惑を受ける中で神の証言をした時、サタンには何も言うことがありませんでした。

神はこうとも仰りました:「神はサタンによってヨブが神の前に義なる人間であることを証明させる機会を与え、サタンの邪悪さと卑劣さを暴露させただけである。それはヨブにとって、義人であり、神を畏れ、悪を避ける自身を世界の人々とサタンさらには神に従う人々にまでも証しする機会となった。」これより、神は義なる性質をお持ちで、完璧な行動をとられることが分かります。ヨブがサタンに誘惑される前、神はヨブの義なる行いを見て、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」(ヨブ記 1:8)と仰りましたが、サタンは納得していませんでした。これを理由に、神はヨブに自分自身の義なる性質をサタンと世間に証言する機会を与えるため、そして神のヨブに対する評価が正確であり、かつ紛れもないものであることを証明するために、サタンがヨブに襲い掛かることを許可されたのです。これと同様に、私たちに降りかかる苦難と試練も私たちが神の証言をする機会なのです。試練の中で神の証を立てられる人々のみが神の更なる祝福を受けられるのです。ヨブは所有物と子供たちを失いましたが、それでも神の文句を言ったり、神を誤解したりしませんでした。もしろ、彼は神の御計画に従い、神の聖なる御名前を讃え、サタンを完全に辱めたのです。ヨブが神の証を立てた後、神はヨブに更なる所有物と立派な子供達をお与えになりました。しかし、神の視点からは、ヨブに与えたものはこれだけでなく、更に大切なものがありました。

表面的には、ヨブが所有物の全てと子供達を失い、体中に腫物を患うという苦難を受けたことは身も世もあらぬ事態のように見えました。しかしながら、神の御心は、ヨブが神に対して不平を言うのではなく、そしてどのような環境に置かれても、神から祝福を受けていようが、何かを取り上げられようが、それに関係なく神に完全に従うことができるよう、この試練を通じてヨブの信仰を固めることであったのです。この苦難の中で、彼の心は神に近づき、彼は神の善良な御旨をより深く理解し、それにもっと気を配れるようになりました。また、誰もが知っての通り、ヨブはこの試練を乗り超えた後、より素晴らしい祝福を受けました、すなわち、ヤーウェ神がつむじ風の中から彼に答え、自ら神の背中を拝見する機会を与えてくださったのでした。実際、神はとても聖なる御方であるため、堕落した私たち人類は神の御顔を見るに全く値しません。ヨブは創造主の御声を自らの耳で聞くことができたのです。これは創造物にとっては最高の名誉であり、彼の持つ神に関する知識も深まりました。更に重要なこととして、ヨブはサタンから受けた様々な誘惑の中で、神への真の信仰と従順に頼って神の証を立てた後、サタンからの非難や妨害、攻撃や害から完全に抜け出し、心から神を崇拝する自由な人間になったのです。

従って、主から授かる物質的な祝福に限らず、病気や苦難さえも神の御恵みであることが明確に分かります。これ故に、どのような逆境や苦難に遭遇しても、私たちは心を正しい場所に置き、むやみに逃げたり不平を言ってはならないのです。私たちは神に服従し、真理を求めてさえいれば、間違いなく神を知るという側面においてより深い体験をし、人生におけるより大切な恩恵と霊的成長を手にすることができるでしょう。これらは全て、発病や苦難を被った後に得られる貴重な宝であり、私たちは間違いなく神の祝福をもっと受けることができるでしょう。

寄稿家:シァンフェイ(中国)

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