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クリスチャンの証し-人生の新たな道を発見しました

寄稿家:ティエシン(マレーシア)

目標を立てて全力で取り組む

貧乏だった私の家族はいつも人から馬鹿にされ、見下されていました。私の両親は私が幼かった頃から、「お前は競争心を持たなくてはだめだ。しっかりとした将来性があれば、誰からも見下されることはない」、と言って私を教育してきました。その当時、私は一生懸命に勉強して上に這いあがり、両親の期待に応えることだけを目標にしていました。

小学生の時、私は一生懸命に勉強しました。もっと多くの言葉を覚えたかった私は、毎日宿題をした後、父に新聞を読みました。小学3年生の時以来、私は語学力を伸ばすために毎日マレーシア語、英語、そして北京語で日記を書いていました。沢山努力したおかげで、私は学校でいつも好成績を収めていました。成績を更に伸ばしたかった私は放課後の授業も受けたかったのですが、父はその授業料を払うことができませんでした。こうして私はその授業料を払うために終末はレストランで働きました。私は注文とテーブルの掃除の両方を担当していたので、素早く仕事をこなすことができませんでした。私がもたもた仕事をしていると、ボスは汚い言葉で私を怒鳴りつけました。私はこれが起きるたびに酷い扱いを受けている気分になり、いつも夜に泣いていました。私は、「授業料のことがなかったら、あんたの下でなんか絶対に働かないんだから」、と思いました。私はこのようにしてお金を稼ぎ、同時に勉強していたのです。必至に稼いだ授業料で私は気が狂ったように勉強しました。夜は12時が過ぎてからベッドに入り、毎朝5時に起きて授業の見直しをしました。さらに、試験勉強をしていた時は1週間ほとんど寝ることはありませんでした。眠気が襲ってくるとコーヒーを飲んで目を覚ましたり、休憩中に自分のデスクで軽く睡眠をとりました。長い間続けていると、これはとても耐えがたくなってきましたが、人との差をつけたかった私はどれだけ辛かったり、しんどくても諦めないという意思を持っていました。

高等学校に入学すると宿題の多さによる負担から好成績を上げるプレッシャーが増していきました。大学を目指していた私は1年目は勉強をしながらパートで働いて個人授業を受けて、次の2年間は一生懸命に勉強する決意をしていました。後に、私はコーヒーショップで仕事を見つけました。勤務時間が平日は夜の7時から夜中の12時まで、週末は夜の7時から朝の7時でした。その当時、私の仕事仲間は一緒によく外食してお酒を呑んでいました。私はお酒を呑まないでいると、彼らから非社交的だと言われました。私は職場で良い関係を維持するために嫌々ながらも参加しました。ある時、私は少し酔っぱらって午前1時に家に帰ったことがありました。顔を洗って歯を磨いていると、突然体中に力が入らなくなり、シンクの側で気を失ってしまったのです。運が良かったことに、私がバケツにぶつかる音を聞いた父が私をトイレから引きずり出してくれました。その後、父は私の個人授業の費用を払ってくれと約束してくれました。これで私はもうパートの仕事をする必要がなくなったのです。こうして、私は勉強に没頭しました。私は毎晩平均で4時間しか寝ませんでした。私は正午に学校から帰宅すると急いで昼食を食べ、学校の勉強の見直しをするために自分の部屋に閉じこもり、家族と話すことはほとんどありませんでした。私にとっては食事や家事をすることすら時間の無駄でした。この絶え間ない負担は耐え難いものでした。その後、私は不眠症に悩まされてしまいました。長い間コーヒーを飲み続けていた私はコーヒーの効果を感じなくなっていたのです。眠い時にどれだけコーヒーを飲んでも、もはや効果はありませんでした。

2011年6月、私は高等学校から卒業しました。大学から合格通知を受けた時、私は成功がまるですぐそこまで来ているかのようにホッと安堵の長いため息をつきました。そして私は心の中でこう計画しました:「大学を卒業したら、数年間働いてまとまったお金を用意しよう。それで自分のビジネスを始めたら家とか車が買える。。。」私が自信ありげに明るい将来の計画を立てていたその時でした、悲痛な知らせが飛び込んできて、私はそれに一気に押し潰されてしまったのです。

母の他界

大学の合格通知を受けてすぐ、私は母が長期的な過労と精神的な過度の負担により乳がんに罹っていたことを知り、言葉を絶するほどの悲痛に駆られました。私は母の病気は治らないのではないかと心配しました。母が死んでしまったら、私の成功など何の役にも立たない。その後、私は乳房切除術を受けに行く母を病院まで同行しました。耐え難い痛みと苦しみから開放されることを願った母は頻繁に自らの命を絶つことを望みました。それは私にとって心臓に鋭い痛みが走るほどつらいものでした。生まれて初めて、人間は病魔の前ではとても脆いものだと私は感じました。

その1年後、母の状態が一時的に安定していたので、私は大学に戻って勉強を続けました。2013年8月のある日、父から電話がかかってきました。母は癌細胞が肺、肝臓、そして脊髄まで拡がり、癌の終末期に陥ったと父は言いました。私はこれを聞いて倒れそうになりました。急いで実家に帰って見ると、まだ40代後半であった母は60歳を超えているように見えました。足が弱くなっていた母は松葉づえを使ってしか歩けなくなっていました。癌に侵された肺のせいで呼吸が困難になっていた母は寝椅子に仰向けになって座ることを余儀なくされていました。その後、歩けなくなってしまった母は入院を余儀なくされ、私は病院で彼女の世話をしました。私は病棟の中で癌に苦しむ大勢の人たちと出会い、その中には意識不明のままの人、食べることができない人などがいました。私は心の中で言いようのない悲しみに駆られました。この時点で、私は既に、私たち人間はどれだけ有名で、どれだけ身分が高くても、病魔の前では本当にちっぽけな存在であることに気が付いていました。ある日、母は突然意識を失いました。私はパニックになり、必死に泣き叫びましたが母は帰らぬ人となってしまいました。母が去った瞬間、地位や、仕事や、車や、家など、全世界がもうどうでもよくなってしまいました。

これから歩んで行く道

母が他界して以来、私はとても落ち込んでしまい、授業を受ける気分ではありませんでした。私は学校の勉強を何とか乗り切ってはいましたが、試験に向けて復習する気にはなりませんでした。私はまるで歩く死体になったようでした。1人でいると、こう考えずにはいられませんでした:「今までずっと、成功すること、尊敬されること、そして両親の期待に応えることを目指してやってこれた。それで大きなプレッシャーに耐えることもできた。でもお母さんが突然死んで、私たちの命は儚いことが分かった。私たちがいつこの世界を去るかなんて、誰にも分からない。私たちは死ぬまで大変な人生を送るためだけに生まれてきているのかしら?私のいのちの道は一体どこに向っているのかしら?

福音との出会い

ある日、主を信仰している仕事仲間がインターネット上の集会に参加しないかと私を誘ってくれました。当時、私はとても落ち込んでいたので、これから先を進んでいくためのモチベーションを見つけるためにそれを受け入れました。ある集会の時、私は兄弟姉妹に自分の母が他界したことについて話しました。彼らは私を気の毒に思ってくれました。ヂャオ兄弟はこう言って交流しました、「私たち人間は神から距離を置き、サタンの支配下で暮らし、その害に苦しんでいます。私たちはサタンに何時でも飲み込まれてしまう可能性があります。今まで、主への信仰において、私たちは誰もがサタンに堕落させられていたことを知っていましたが、それがどのようにして私たちを堕落させたのかは知る術がありませんでした。神の御言葉を読んでいた時、私はサタンが私たち人間を堕落させる手段に関する見識を初めて得ることができました。神はこう仰っておられます:『神とともに時代を通り抜けてきたのに、神が万物と生けるものの運命を支配することや、神がどのようにして万物を指揮し方向づけるのかを、人は知らない。これは遥か昔から今日まで、人には分からないことである。その理由は、神の業があまりに見えにくいからあるいは神の計画がまだ実現されていないからではなく、人の心と霊が神から離れすぎているからである。したがって、人が神に付き従っているときでも、彼は知らないうちにサタンに仕え続ける。誰も神の足跡や出現を自発的に探し求めないし、誰も神の配慮と守りのもとで存在することを望まない。むしろ、人は、この世と、不正な人類が従う生存の法則に適応するために、喜んで悪であるサタンの腐敗に頼ろうとする。この時点で、人の心と霊はサタンに捧げられ、サタンの食物となる。さらに、人の心と霊は、サタンが住む場所になり、サタンの恰好の活動場所となる。このようにして、人間であることの根本的原則についての理解と、人間存在の価値と目的についての理解を、人は気づかないうちに失うのである。神からの律法と、神と人の間の契約は、人の心のなかで徐々に消えていき、やがて人はもはや神を求めたり、神を心に留めたりしなくなる。時が過ぎるにしたがって、人は、なぜ神が人を創造したのか理解しなくなり、もはや神の口から来る言葉を理解しなくなり、神からくるものすべてを認識しなくなるのである。人は神からの律法と掟に反逆し始め、人の心と霊は無感覚になっていく…。神は神の本来の創造物である人を失い、人は自分が始まったその起源を失うのである。これは今の人類の悲しみである。』

そしてヂャオ兄弟は続けて交流しました、「アダムとイブは神が創造なされたエデンの園で最初は幸せな生活を送っていました。彼らには疲労や痛みなどなく、まして死を味わうことなどもってのほかでした。しかし、彼らはサタンの虚偽に耳を傾けて神を裏切ってしまい、サタンの支配下で生きるはめになってしまったのです。サタンは何千年にも渡って、偉大な人間や有名人の様々な観点、および '先立つものは金'、'苦は楽の種'、そして 'この世は金しだい' といったようなサタンの教育をもって私たちを騙し、私たちに毒を植え付けてきたのです。サタンからこれらの観点を受け入れてしまうと、私たちのいのちに対する考え、価値観、そして人生の目標が変わってしまうのです。私たちは地位と権力を称賛します。私たちはお金と権力がないと無能と見下されてしまうと考えます。私たちはお金と権力が私たちの生きる道を裕福にし、魅力的で幸せな人生を与えてくれると信じています。この結果、私たちは全力でお金稼ぎに取り組み、人生の大部分を多忙に暮らします。しかし、最終的に私たちはただ死んでしまうだけなのです。明らかに、サタンの虚偽は苦しみと暗闇しかもたらしません。私たちは、サタンが人類を堕落させることの真理を明確に理解してのみ苦しみを振り払うことができるのです。」

私は、ヂャオ兄弟の話しを受けて、私たちがこれほど辛い思いをしながら生活している理由は、私たちが神から離れてしまっているから、そしてサタンから堕落させられその苦しみの中を生きているからだと理解しました。私たちは救われることを求めて神の前に行く場合に限って平安と幸せを得ることができるのです。私は帰宅して直ぐに全能神教会のウェブサイトにアクセスしました。そこには沢山の神の御言葉の書籍、讃美歌、映画、ミュージックビデオ等がありました。コンテンツはとても豊富にあり、私は興奮を抑えられませんでした。私は世の終わりの全能神の働きを調査し続けることにしました。

サタンの策略を見抜く

集会で、ある姉妹が神の御言葉のこの節を読み上げました:「実際には、人間の理想が如何に高尚であったとしても、また人間の願望が如何に現実的であり、適切であったとしても、人間が成し遂げたい事、求める事は、二つの言葉と不可分な関連性がある。その二つの言葉は、人間それぞれの生涯にとって極めて重要であり、サタンが人間に吹き込みたいことです。その二つの言葉とは、何でしょうか。そのひとつは『名声』で、もうひとつは『利得』。二つの言葉とは、名声と利得です。サタンは極めて温和な方法、人間の観念に極めてうまく適合する方法を用います。その方法には、全く過激さが無いのです。人間は、無意識のうちにサタンの生き方や生活の規則を受け入れるようになり、人生の目標や方向性を決定し、またそうすることにより無意識のうちに人生の理想を持つようになります。そうした人生の理想は、どれほど高尚な響きがあったとしても、名声や利得と複雑に関連している建前に過ぎません。…サタンは名声と利得を用いて人間の思想を支配し、人間が名声と利得しか考えられないようにします。人間は名声と利得のために努力し、名声と利得のために苦労し、名声と利得のために恥辱に耐え、持てる全ての物事を犠牲にし、名声と利得のためにすべての判断と決断を下します。このようにして、サタンは目に見えない足かせを人間にかけます。足かせは人間の身体に付けられ、人間はそれを外す力も勇気もありません。したがって人間は、無意識のうちに足かせをかけられた状態で極度の困難の中を歩んでゆきます。」

姉妹はこう言って交流しました、「この世界では、誰もが遅れをとるのを拒みます。誰もが人の上に立ちたがるものです。それはなぜなら、私たちは '注目を浴びて偉い人になれ' や '力をもって人を服するのは、心から服するにあらず。徳をもって人を服するは、喜んで真に服するものなり' といったサタンの観点に支配されているからです。私たちは卓越した人間になり、尊敬されることを求めるべきであると考え、それが私たちのいのちに価値を添えることができる唯一の方法だと思っているのです。この目標を達成するために、私たちは骨折って働き、難渋する屈辱に耐えるのです。他人の目からしたら私たちは意欲的であるように見えるかもしれません。しかし、神の御言葉によると、私たちが求める最終目標は名声と利益を手にすることに過ぎず、それはサタンの策略で満ち溢れているのです。サタンは私たちが神に背くようにするために名声と利益を使って私たちを誘惑、そして堕落させ、最終的には私たちを飲み込もうとするのです。」

私は彼女の話に衝撃を受けました。私は幼い頃から両親に他人の上を行って成功を収めるよう教育されてきました。このために、私は大きな目標を立て、それに向って苦労してきたのです。私は屈辱に耐え、倒れそうにまでなりましたが、決して諦めようと思ったことはありませんでした。私は自分の理想と目標を実現させるために多くの苦しみに耐え、体調を崩すことすらありました。私は名声と利益を目指していたがために、とても惨めな生活を送っていたのです。神の御救いがなければ、私は決してサタンの邪悪な悪意を見抜くことはなく、この先も絶えず騙され、虐待され、傷つけられていたことでしょう。

答えを見い出す

その後、私は神の御言葉を毎日読みました。私は徐々に、サタンが人間を堕落させる方法に関する見識を得ていきました。サタンが私たちを騙し、堕落させる目的は私たちが神に背き、神の御気遣いと御加護から離れるようにすることなのです。それに対し、神は私たちを救うために真理を表し、私たちがサタンの策略と束縛を振り払い、人間が歩むべき適切な道を歩めるようにしてくださるのです。神への信仰を通じて真理を得ることができれば、私たちは罪を振り払い、神の御言葉に従って生きることができます。そして私たちは神の祝福を授かり、神の御気遣いと御加護の中で生きれるようになるのです。神の御旨を理解した私は、サタンにはもう二度と騙されたり、虐待されたくないと思いました。

ある日、ヤン姉妹が私にあるリンクを送ってくれました。神の御言葉は私たちが生まれてから死ぬまでの間に通らなければならない6つの節目を明確に表していると彼女は言いました。彼女は私に時間がある時にそれを読むよう勧めてきました。私はリンクをクリックしてウェブページを表示しました。するとある節が私の心をつかみました。神はこう仰っておられたのです:「人間は、金銭と名声を求めて人生を過ごし、そうしたわらしべを握りしめて、あたかもそれがあれば生き長らえて死から免れられるかのように、それが唯一の助けであると考える。しかし、死が迫る時になって初めて、こうした物事がどれほど自分に無縁であるか、死に直面した自分がどれほど弱いか、どれほど脆いか、どれほど孤独であり、誰にも頼ることができず絶望的であるかを知る。人間は、いのちを金銭や名声で買うことが出来ないこと、いかに裕福な者であっても、いかに高尚な者であっても、死に対して人間は皆同様に貧しく些細な存在であることを知る。人間は、金銭でいのちを買えないこと、名声で死を消し去れないこと、金銭も名声も、一分一秒たりとも人間の寿命を延ばせないことを知る。」

神の御言葉は、神の主権に関する真理と知識を持たぬ私たちは名声と利益を求めるために苦心して労力を費やしていることに気が付かせてくれました。私たちは人生の終端に達した時、いのちが最も尊いものであることに初めて気が付くのです。私たちはどれだけ裕福であろうとも、どれだけの人から尊敬されていようとも、いのちを延ばすことはできないのです。お金と名声は私たちを救うことはできません、ましていのちを購入することなど尚更できません。神の御言葉は真であります。私は人生の残りの日々を過ごす母に付き添いました。人生の終わりに近づいていることを知った母は何もできず、苦しい思いをしました。私はその時初めて、私たちのいのちは非常に貴重なものであることに気が付いたのです。病棟にいた他の患者たちにはどうだったかと言うと、彼らが権力や富を持っていたか否かにかかわらず、彼らのいのちも引き延ばすことなどできなかったのです。彼らは死に直面すると、皆が同じようにとても小さな存在に見えました。私たちは神を信じる場合のみ、神の御加護を授かり、平安と幸せを手にすることができます。神から離れて知識、高い地位、莫大な富、そして名声を追い求めても、それは無意味です。なぜなら、それらには何の価値もないからです。これを理解した私は解放された気分になり、母の死による絶望感も感じなくなりました。神のなさった選択に感謝します。神は私がこの世界で追い求めるべき有意義で価値のあるものに気付かせてくださいました。私の人生はまだ先が長いのです。私は残りの人生を通じて神に従い、神の働きを経験していく決意をしました。

自分の真のいのちを発見

終わりの日の全能神の働きを受け入れた後、私は学校に通いながら兄弟姉妹と集会を開きました。私は神の御言葉を読んでいると、神の主権に関する知識を得ることができたので、自分の日常生活を神に委ねるようになりました。私が地元に戻ると、父はもう1年以上もまともな仕事に就いていないけれど、驚いたことに私の授業料を払う必要がある度に、誰かが仕事をくれて、稼いだ収入が丁度足りていたと私に言いました。私は父の言葉を聞いて感動しました。私はこれが神の御業であると分かっていました。神は秘かに私を守ってくださっていたのです。その時、私は神の全能さと主権をより深いレベルで体験したのです。神のこの御言葉が私の頭に浮かびました:「ある者が、人生は創造主による統治を体験し、その権威を知る機会であり、その者が創造された人間として本分を尽くし、使命を果たす希な機会であると考えているのであれば、その者は必然的に正しい人生の見通しを得て、創造主により祝福され、導かれた人生を送り、創造主の光の中を歩み、創造主による統治を知り、創造主の支配に服従し、創造主の奇跡の業と権威の証をするものとなる。」

過去を振り返ってみると、私は神を知らず、辛くて苦しい思いをしていました。神の慈悲と御恵みが私を神の御家に導いてくださったのです。私はその時はじめて、人が創造主の前に立ち返る幸せを体験しました。私は人生の新たな道を選択します。以前、私は注目を浴びることに後押しされ、車や家、そしてお金を稼ぐことを目標にしていました。今現在、こういったものは私の人生の焦点ではありません。人生の正しい道を歩むということは、神の前に行き、神の御言葉をもっと読み、そして神の働きを経験することに他なりません。

卒業した後、私は神の御導きで穏やかな仕事に就きました。給料は高くありませんでしたが、私が生活するには十分でした。現在、私は兄弟姉妹との集会に参加し、神の御言葉を読み続けているおかげで、ある程度の真理を理解できています。私は職場と私生活において真理を実践し、神の御言葉に沿って生活する努力をしています。私は仕事を楽しみ、神の家族の一員として更なる自由とゆとりの中で自分の本分を尽くすことに最善を尽くしています。全能神に感謝します。神の御言葉は私の人生を変え、私を人生の真の道へと導いてくれました。

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