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カトリック信者の証し:教会の荒廃の原因を尋ねる

編集者注:
カトリックの家庭に生まれた彼女は、子供の頃、両親と一緒にミサに出席していました。大人になり、荒廃し混乱するカトリック教会を目の当たりにし、もはや聖霊の働きを感じることができなくなり非常に困惑しました。ある偶然の出会いから、彼女は主がずっと以前にお戻りになられていることを知ります。そして調べていくうちに、教会が荒廃した根本的な原因をついに突き止めたのでした。

寄稿家:ファンシア(アメリカ)

昔の教会は熱気にあふれていた

 私たちの家族は何世代にもわたってカトリック教徒で、私は生まれてわずか数ヶ月で洗礼を受けました。いつもアラームのけたたましい音に起こされ、両親にベッドから引きずり出されて、急いで顔を洗って着替え、夜のミサに出席するため教会に急行していたことを覚えています。

 両親によると、中国で主を信じる人は迫害され、司祭や信者たちは逮捕、拘留されることがよくあるため、私たちにとっては夜間にミサに出席するのが安全だということでした。とても危険でしたが、それでも教会の信者仲間は非常に熱心で献身的でした。天候がどうであれ、ミサの開催場所がどこであれ、皆が詳細をそれぞれに伝え合い、お年寄りや若者が出席するように我先にと助けていました。皆が、まるで新年のように興奮して聖歌を歌い、一晩中起きていたにもかかわらず多くの信者が意気揚々としていました。

今や教会は荒廃してしまった

 あっという間に私は大人になりましたが、教会も大きく変化しました。ミサに出席する人はどんどん少なくなり、出席者の多くはお年寄りで、若者の顔はほとんど見られなくなりました。教会の折々の行事のさいには、ミサは活気があふれ賑やかになりましたが、出席者の中にはマルチ商法や直接販売に関わっている人、保険外交員、スーパーマーケットやレストランを開く人などがいて、まるで野外の食品市場のように混乱としていました。皆がミサに出席するふりをしながら、実際は客を探すためにそこにいたのです。信者が集まった場合でも、どのように主を礼拝するべきかや神の御言葉を実践するべきかについて話さず、どうでもいいような家庭の事柄について話したり、家族が作った農作物の売り込みをしたりするだけで、心から主を礼拝しようとしていた人は誰もいませんでした。こうした教会の状況は、時間が経つにつれてますます悪化していきました。神父様の説教は啓きを与えてくれないばかりか、不当に他の教派を非難し、信徒に向かって用心するよう釘を刺すこともよくありました。さらに神父様たちは派閥で分裂し、他の聖職者と袂を分かつようになりました。時に見解の違いから議論が生じて内輪もめが起きることもあり、信者もいずれかの側について互いに批判し合い、言葉で攻撃し合うようになりました。以前には見られた思いやりや寛容さは、もう跡形もありません。教会でのこうした状況を目の当たりにした時、どうしてこんな風になったのか理解できず、言葉にならない悲しみを感じました。

2009年、日本に留学していた私はミサに出席するために教会に行きましたが、日本の教会も中国と同じように混乱としていることが分かりました。神父様も信者たちも非信心者のような話し方や振る舞いをし、世俗的な流行を追い、誰もが人を出し抜こうとして互いに人を見下すような態度を取っていました。神父様はお金を持っている人たちには喜色満面の笑顔を振りまく一方で、お金がない人たちには冷たい態度を取り、ぶっきらぼうな口調で話していました。外国でこんなことが起きているのを見て、私は非常に落胆し混乱してしまい、もはや以前ほどには主を身近に感じなくなってしまいました。毎日、朝晩出席していた礼拝は負担になり、ミサに出席するため教会に行くのがどうしてもいやになった日もあったくらいです。しかし、主から地獄行きを宣告されるのが恐ろしくて、行くのをやめる勇気はありませんでした。その後も無理をして教会に行ってはいましたが、私の霊は満たされず、心は空になりました。時々、私はこう思いました。「どうして教会はこんな風になったのだろう。以前は信者も少なく、中国共産党は私たちを迫害していたけど、真夜中のミサには皆が熱心に出席していた。でも最近では、環境がもっと快適で楽になるにつれて逆に、人は怠惰になっていく。これは、前より多くの人が主を信じるようになったからだろうか。それともあまりに多くの説教を聞いたので、神秘的なものを何も感じなくなったからだろうか。」 私はとても困惑しました。

 2018年5月、私は夫とまだ1歳に満たない娘と一緒にアメリカに移住しました。私たちは落ち着くと、近所の教会のミサに出席するようになりました。信じられないことに、この豪奢で巨大な教会にはほとんど人はいませんでした。神父様は上に立って説教をしていましたが、下方に座っていたほとんどの人は眠たげで、居眠りしている人もいました。人がまばらで空席の多い巨大な教会を眺め、そこに座っている人の無表情でうつろな顔を見ながら、私は自分の感情を言い表すことさえできませんでした。

 私はネット上で良さそうな教会を見つけたかったのですが、それで分かったのは多くのカトリック教会が死者を追悼する銘板であふれて、人々はただ香をたいて供え物をするだけだということです。また、一部の教会では司祭が修道士を呼んでお経を唱えさせたり、さらには司祭や司教が絡んだ多くのスキャンダルもありました。こうした状況を目にした私は、聖書の中で主イエスが話されている御言葉を思いました。「わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」(マタイによる福音書21:13)。中国でも日本でもアメリカでも、そして地上でもインターネット上でも、すべてのカトリック教会はまったく同じでした。私は現代のカトリック教会は完全に駄目になってしまったとはたと感じたのです。見た目はとても立派に見えますが、もはやそこは神聖な場所ではありません。私は途方に暮れました。教会は非常に混乱とし停滞しているのに、なぜ聖霊はそれを何とかなさらないのでしょうか。

当惑する中、偶然の出会いが教会の荒廃の根本原因を暴く

 その年の7月のある日、ミサに出席するために娘を連れて教会に行った私は、そこでケリー姉妹に会いました。会った瞬間、まるで昔からの友人のように感じました。帰る道すがら、ケリー姉妹は聖書の中の物語を私にたくさん話してくれました。例えば、主イエスが話すのを聴き、その権威ある力強い言葉からその方が来るべきメシアだと気づいたサマリア人の女の話などです。そしてケリー姉妹はこうも言いました。主イエスが語られた賢いおとめは、聖書を読んだり欠かさず集会に出席したりといった外向きに熱心であることだけではなく、さらに重要なことに、主の声を判別できることを指しており、それは、主が再来された時に、そうすることによってのみ、お迎えすることができるからだと言うのです。彼女の話は新鮮で刺激的でした。長い間ずっとカトリック教会の集会に出席していましたが、そのような新鮮な話はそれまで誰もしてくれたことがありません。私は啓かれたと感じ、私の心は大いにそれを享受しました。その後、ケリー姉妹が彼女たちの聖書勉強会に私を誘ってくれたので、私は喜んで行くことにしました。

 聖書の勉強会では、たくさんの新しいカトリック信者の他、数多くのクリスチャンの兄弟姉妹や伝道師の劉兄弟に会いました。これらの兄弟姉妹に会ったおかげで、私はとても温かい気持ちになりました。皆がそれぞれの経験を交換し合う中、とても解放された気分がしたのです。そこで、私も自分自身が感じた困惑について皆に心を打ち明けました。

私は言いました。「私はいくつかの国のカトリック教会に行ったことがありますが、どの教会でも主の愛や聖霊の働きを感じたことがありません。一部の教会の神父様には、信者に遺族の銘板を教会の中に設置させ、それを礼拝させる人もいます。私は教会がますます混乱とし、もはや主の栄光に満たされていないことを目の当たりにしたのです。私自身の信仰は徐々に冷めています。どうしてこんな風になったのか分かりません」

 劉兄弟が答えました。 「あなたが挙げた問題はとても現実的で、今日の大部分の信者もそのことについて戸惑っています。カトリック信者は皆、カトリック信仰がキリスト教の根源であると考えていますが、それならどうして教会は主の栄光を失い、今日のような荒れ果てた状態へと悪化したのでしょうか。実際のところ、教会の現在の荒廃の理由を知りたければ、まずは数千年前に起こった神殿の荒廃の理由を振り返らなければなりません。律法の時代の初期には、神殿は主の栄光で満たされており、聖霊の前では誰もが畏敬と敬意を表らなければなりませんでした。聖霊は神に背いた者を撃たれるため、祭司でさえ神殿で聖霊に仕え、細心の注意を払っていたほどです。例えば、旧約聖書には、ウジヤという名前の王がいたことが記録されています。彼は戦いで大勝利を収めて大きな権力を得た後、尊大で傲慢になりました。祭司の警告に耳を傾けることなく、良くない事と知りつつ神殿に入って神への供え物として香をたこうとしたのです。こうして神に背いた彼の額には瞬く間にらい病が発生し、死を迎えるその日までらい病人となりました(歴代志下、第26章16-21参照)。このことから、聖霊が神殿に存在するとき、誰も律法を破ろうとしなかったこと、そしてすべての国民の王でさえも例外ではなかったことが分かります。なぜなら聖霊は聖いものであり、汚れたものを容認されないからです。汚れたものを目にされると、否応なく撃つことになります。しかし律法の時代が終わりに達すると、民衆はもはや律法を守らなくなり、祭司は偶像を崇拝して足なえのものを犠牲に捧げ、人々は神殿内で公然と両替業を営み、家畜や家禽を売買しました。こうして神殿を泥棒の巣窟へと変えたのです。それでも聖霊は彼らを懲らしめたり、懲罰を与えたりしませんでした。それはなぜでしょうか。もし聖霊が神殿におられたならば、神殿が泥棒の巣窟になることを許されたでしょうか。明らかに許されなかったでしょう。つまり、神殿が泥棒の巣窟になるずっと以前に、聖霊はそこから離れられていたのです。では、なぜ聖霊は神殿から離れられたのでしょうか。それはおもにユダヤ人の指導者たちがもはや神の律法に従わなくなり、神を畏敬する心を持たなくなったからです。彼らが受け継ぎ守ったのは人間の伝統だけで、神の戒めは捨てました。完全に神の道から外れ、聖霊の働きを失ったのです。それに加え、聖霊が神殿を後にされたのは、恵みの時代に人類を贖う働きをされるため神がすでに肉となられており、聖霊の働きが他の場所へと移ったからでもあります。律法の時代の終わり頃、律法を守れなかったユダヤ人が投石で殺されたり、神聖な火で焼かれたりしたことを私たちは皆知っています。もし、聖霊が神殿を後にせず、律法の時代を終わらせず、磔の働きと人類の贖いを行わなかったならば、人類は律法の下で滅びていたでしょう。聖霊が神殿を離れられたのは人類にとっても神の働きにとっても必要だったというのは明らかです。聖霊の働きは絶えず前に進み、一つの時代に止まることはできません。律法の時代の成果が得られた後、聖霊は次の段階の働きを始められました。聖霊は古い働きを終わらせ、古い働きの場を去り、新たな働きに着手し、新たな時代へと人を案内し導かれたのです。新たな時代の人々がそれについていくことができなければ、聖霊の働きを受けられず、聖霊の糧を得られません。時と共に人々は飢えや渇きのために罪を犯すようになりましたが、懲らしめられることなく、ますます堕落しました。そしてオアシスは不毛の砂漠に変わり、カナンの地は飢饉に見舞われ、教会は荒廃したのです。ちょうど神がおっしゃったとおりです。『見よ、わたしがききんをこの国に送る日がくる、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである』(アモス書8:11)。同様に今日のカトリック教会は市場や泥棒の巣窟と化しています。ではなぜ神は教会を懲らしめ懲罰を与えられないのでしょうか。「愛といつくしみのあるところ神はそこにおられる」(「愛といつくしみのあるところ」)という聖歌があります。教会は今、わずかな寛容さも忍耐も失い、論争や内輪もめを繰り広げています。では、神はどこにおられるのでしょうか」

神はどこに行かれたのか

 私はうなずきました。その有名な聖歌を劉兄弟が歌うのを聞いたとき、私の心は温まりましたが、同時に少し悲しくもなりました。私は言いました。「納得のいくお話です。教会で何の愛も感じることができないのは、主がもはやおられないからなのですね。もし教会に聖霊がおられたなら、誰も神を軽蔑するはずがありません」

劉兄弟は言いました。 「そうですね。では、神がもはや今の教会におられないのだとしたら、神はどこに行かれたのでしょうか」

 劉兄弟から質問されて、私はそのことについて深く考えました。「確かにその通り」と思いました。「律法の時代の終わり頃、人類を贖う新たな働きを行なうために聖霊が離れられたことで神殿は荒廃した。今では教会も荒廃している。では、神はどこに行かれたの」 神を信じ始めてからのことを考えてみると、私は所定の秩序に従い、聖書を読みミサに出席してきました。教会がどれほど混乱としているかに気づいたとき、多くの疑問が生まれました。しかしそれまで、神がどこに行かれたかについて考えたことはほとんどありませんでした。私はこの質問を心から理解したいと思い、劉兄弟の答えを待ちました。

 聖書を開くと、劉兄は私に読むように言いました。「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた』(アモス書4:7)読み終わると、彼は次のような話を始めました。「神の預言から分かるのは、私たちの教会に雨が降らないのはそこに聖霊の働きがないときだということです。それは、聖霊がすでに別の場所で新たな働きを始められていることを示しています。実のところ、主はすでに受肉されて戻られており、御言葉を語られ、新時代の到来を告げる新たな働きを始められています。『この畑は雨をえ』という言葉は、終わりの日に主が戻られたとき、その働きを受け入れて従う教会を意味しています。そうした教会は主の現在の御言葉を受け入れているので、主によって与えられるいのちの水と潤しを享受します。『かの畑は雨をえないで枯れた』という言葉では、聖霊の働きが他の場所に移っていることから、聖霊はすでに恵みの時代に種をまく働きを終えられ、今では神の国の時代の収穫の働きを始められたことを意味しています。聖霊の働きは恵みの時代の教会から完全に離れ、代わりに主の新たな働きに従う人々に向けられているのです。聖霊の働きの守りがなくなったことで、恵みの時代の教会の司祭や司教たちは枯れ、ミサで価値のある説教ができなくなり、信者に規則に従い典礼を守るようにと導くことができるだけになってしまいました。教会が荒廃した理由はもう一つあります。それは、司祭や司教たちが主の御言葉を実践せず、戒めを守らないことです。誰かが主の再来の福音を宣べ伝えているのを耳にしても、それを探し求めたり調べたりすることはありません。彼らはただ戻られた主の働きを拒否し、抵抗し、非難するだけで、これが教会に対する主の嫌悪と拒絶につながり、聖霊の働きを完全に失うことになるのです。聖霊からいのちの水が与えられ潤されることはなくなり、荒廃への道をたどることになります。そのため信者たちは偶像を崇拝したり内輪もめしたりするようになり、罪を犯しても懲らしめられず、説教中に居眠りする者もいて、そして教会は売買や取引の場となりました」

劉兄弟の話を聞き、私は驚きました。新たな働きをされるために主がすでに戻られており、私たちがついていっていないがために、教会が荒廃したということがあるのでしょうか。その時私は、新たな働きをされるため主が戻られたと誰かが説いていて、その人物を神父様がミサの時に非難し中傷したことを思い出さずにはいられませんでした。今になってやっと、教会が荒れ果て混乱とした理由が分かりました。それは司祭や司教が再来された主の働きに信者たちの目を向けさせ学ぶようを導かいておらず、その代わりに抵抗し非難したからです。主の戒めと使徒たちの教えに背いたことで、彼らは聖霊に嫌われて拒絶され、主の働きから見捨てられて除外されたのでした。

聖霊の働きをどうやって探すのか

 ちょうどその時、私は突然目が覚めたかのように感じました。劉兄弟の明快で簡潔な話を聞くうち、主イエスが新たな働きをされるために別の場所へと移られたことを心から確信したのです。しかし、聖霊の働きがある教会をどうしたら見つけることができるのでしょうか。これを言葉に出し、質問してみました。

 兄弟は真剣に言いました。「神に感謝します。このようにあなたが理解してくれたというのは、完全に聖霊の啓きと導きによってです。聖霊の働きがある教会を見つけたのなら、まずは再来された主がどのような働きをされたいのかを突き止める必要があります。主イエスはその方法をずっと以前に聖書のなかに示してくださっています。ですから、今、聖書の数節を詳しく見てみましょう。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう』(ヨハネによる福音書16:12-13)。主イエスは、私たちに語るべきことがまだ多くあると言われています。なぜなら当時の人々の霊的背丈はとても小さく、これらのことを伝えても彼らには理解できなかったであろうからです。ですから主イエスが終わりの日に戻られたとき、私たちにさらに多くのことお伝えになるのです。主は私たちのいのちに必要なすべての真理を告げられるでしょう。これらの真理は、聖書に『真理によって彼らを聖別してください。あなたの御言は真理であります』(ヨハネ福音書17:17)と書かれているとおり、私たちの罪を除き清める真理です。また、ヨハネの黙示録にはこうあります。『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう』(黙示録2:17)主の再来の時にもっと私たちに伝えてくださることがあること、そして隠されているマナを与えてくださることを、主は私たちに気づかせてくださいます。私たちが聖霊の御言葉を見つけるとき、主を見つけるのです。

 「別の神の御言葉も読んでみましょう。『イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了して人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。』神の御言葉によって語られているのは、人を救うための主の働きは動きが止まった状態のままであるわけではなく、むしろ常に人を前に導くものであるということです。律法の時代には、当時の初期の人類はどのように生きるべきかを知らなかったため、聖霊は当時の人々の必要性を考慮し、モーセによる律法の布告を通じて、じきじきにお働きになり人々の生活を導かれました。そして彼らに律法と戒めを守らせ、神の恩恵の中で生活させたのです。しかし律法の時代の終わり頃には、人々は律法を守れなくなり、あまりにも多くの罪を犯していたので、彼らは皆、律法によって断罪され処刑されるという危険に直面しました。神は人類を救うために主イエスとして受肉され、恵みの時代の働きをされました。そして人間の罪を背負い生け贄となって十字架にかけられたのです。主に告白し悔い改める限り、私たちの罪は赦されるようになり、過ちや罪を犯しても律法によって呪われ断罪されることはなくなりました。主は私たちを罪深いと見なしているわけではありませんが、それは私たちには罪がないということを意味しているわけではありません。サタンの罪深い本性は私たちの中に深く根ざしているからです。善い行いをしているように見えても、実は自分の利益のために行っており、嘘をついて人をだますこともよくあります。自分の都合に合わない状況になるとすぐに思い違いをし、主を責めることもよくあるでしょう。たとえ自分の考えを声に出して話さなくても、心の中では否定的で反抗的な感情をやはり感じます。自然災害や人災が起きれば、主を裏切ることさえいつでもやってのけます。私たちが罪の中で生きているというのは、こうした振る舞いが十分に証明しています。それゆえに、私たちを完全に清め救うために主は再び終わりの日に受肉され、御言葉を語り、恵みの時代の頃よりも新しく高次な働き、すなわち神の家から始まる裁きの働きを始められたのです。主を受け入れて従う者すべて、そして神の国の時代の御言葉の働きを受け入れる者はすべて小羊の婚宴に出席し、神によって人に授けられるすべての真理を得て、主と向き合いながら、神の国の時代で暮らす人々の生活を始めるのです。これはちょうどヨハネの黙示録で預言されている通りです。すなわち、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして』(ヨハネの黙示録21:3)のことです。」

 劉兄弟の話を聞いた後、私は心が光で満たされるのを感じました。主の働きは前進し、聖霊は恵みの時代の教会から離れ、すでに新たな働きを行なっていらっしゃったのです。つまり、神の国の時代の新たな働きを始められたということです。それなのに、主が新たな働きをされるために戻られたと誰かが説いているのを聞いたとき、神父様のあからさまな嘘を信じました。そして、その話は聞かず、近づこうとせず、それを求めたり勉強しようともしませんでした。私たちはただ教会に固執し、主の歩みについていかず、それゆえに主に見捨てられたのです。今や、主の歩みについていくことによってのみ、聖霊の働きを得た教会を探し出せるということができ、主による神の国の時代の新たな働きを受け入れることによってのみ、聖霊の働きと導きを得ることができ、主と向き合って生きることができるのです。

主はすでに戻られている

 それから数日の間、劉兄弟は私に六千年に及ぶ主の人類を救う経営(救い)計画の三つの段階について、また各時代に主が行われる働きの内幕と本質について詳細に話してくれました。彼はまた、救われたことと完全な救いが達成されたことの違いや受肉とは何か、偽キリストをどのように見分けるか、神の名前の奥義などについても私に話してくれました。私の渇いた心はいのちの水で潤され、私の霊は大いに満たされました。

 全能神の働きを受け入れた後、私はついに光を見ました。中国で説教され大きな物議をかもし、カトリック司祭が非難している東方閃電は、主の現われと働きであることが分かり、私は感極まって言いました。 「このようにして最初から最後まで聞けて本当に良かったです。さもなければ、私は気づかないままずっと主に抵抗しているところでした。それは本当に危険なことでした!」 その後、私は全能神の御言葉を熱心に読み、積極的に集会に出席し、福音映画を視聴して賛美歌も学ぶようになり、すぐに終わりの日の全能神の働きについて確信しました。全能神教会では、聖霊の働きを受けていることから来る安らぎと喜びを心から味わうことができ、この一大家族の温かさも感じています。

 ほどなくして、私は姉妹の一人と共に終わりの日の神の働きの証しを私の夫にしました。今では夫も終わりの日の全能神の働きについていっています。毎日、神のいのちの水によって潤され、養われる日々を楽しんでおり、私たちのいのちは絶えず進歩するようになりました。全能神の御言葉は、すべての奥義を明らかにし、私たちに優れた識別力を与えてくれます。私たちは二度と偽の羊飼いの後にぼんやりとついて、神に抵抗する道を歩んだりしません。私たちはやっと神の子羊の歩みについて進んでいるたのです。

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