なぜ主イエスは普通の姿で人の間で働かれたのか

わたしは牧師で、主のために長年働き、道を説きました。しかし、主イエスがこの世に来て働かれる時、なぜ普通で平凡な人の姿を取られたのかという疑問はずっとわたしの心底にあります。主イエスの容貌が平凡なので、多くの人は彼が神ご自身であることを否定します。多数の人は彼を普通の人と見なしてしまいます。特に祭司長、律法学者、パリサイ人はそうです。彼らは主イエスを神として扱うどころか、かえって主イエスがただ貧しい大工の息子だと論断し、主イエスが悪霊のかしらの力で人の病気をいやし、悪霊を追い出すのだと中傷し、主イエスが神ご自身であることを極力否定しました。「もしわたしがその時代に生まれたら、どのように主イエスを扱うのか、それらの人のように主イエスの平凡さのゆえに彼を評価し、否むだろうか」と、わたしは自問せずにはいられません。これらを考えた後、わたしは自分がどうなるか分かりません。よく考えてみれば、わたしがいま主イエスをわたしの救い主として受け入れることができるのは、主イエスの贖いの仕事がすでに成就し、主の聖なる名が広範囲にわたって証しされたからです。もし主イエスの働きの時代に生まれたら、わたしも当初のパリサイ人と同じように主イエスの普通の容貌のゆえに主に逆らうかもしれません。それで、わたしは困惑してしまいます。「神が最高至上なのに、なぜ普通で平凡な姿を取ってこの世に来て働かれるのか。神が帝王の家に生まれて、偉大な姿、偉人の風格があるとしたら、人は容易に彼を受け入れるのではないか」と。わたしは長い間この問題に困惑しています。

この問題は、わたしがいくら考えても分かりません。わたしは何度も聖書を調べ、また多くの本を読みました。聖書を読み、真理を求め、祈ることによって、わたしは主イエスが普通の姿でこの世で働かれることは意義のあることだと分かりました。わたしはまず、聖書にこういうことが記されているのを見ました。東方の三博士は彼らの想像、観念のゆえに、メシヤが王宮に生まれるはずだと思っていました。彼らは王宮に行ったが、生まれた主イエスが見つかりませんでした。彼らの予想に反して、主イエスは飼い葉桶に生まれ、ユダヤのベツレヘムのある大工の家に生まれ、しかも普通の人の姿を取られました。神はそんなに偉大ですが、普通の人の姿を取られました。このことから分かるように、神の本質はへりくだり、控え目に振る舞うことであり、神は地位があるが、うぬぼれず、自分をひけらかして人に崇拝させることは全然しません。しかしわたしたちは虚栄的であって、人の外見を見、偉大な姿を崇拝するだけで、神の本質と、神の美、善という面とを認識することを重んじません。考えてみましょう。人が想像しているように、主イエスが本当に王宮に生まれ、しかも偉大な姿があるなら、あらゆる人はどうなっただろう。そうであれば、神に逆らうユダヤ人、律法学者、パリサイ人たちは主イエスの普通の姿のゆえに主に逆らうことはなくなります。逆に、彼らはきっと主イエスについて行きます。それでは、彼らの偽善的な、神に逆らう本性の本質はどうして明らかにされることができるでしょうか。それだけでなく、地位の低い人たちは主イエスの偉大な姿と高い地位のゆえに、神は雲の上の存在だと思ってしまいます。こうして、それらの普通の民は容易に神に近づくことができず、また容易に主の救いを得ることができません。

主イエス,イエス,キリスト

ここまで言う時、わたしは主イエスが普通の姿で人の間で働くということの中には神の知恵が隠されていると認識しました。神は全地を見渡すことができるので、神を信じる人は多いが、真心をもって神を信じ、真理を渇望する人はほんのわずかだと知っておられます。そういうわけで、神は、ご自分が平凡で普通の人の姿で現れることによって、真心をもって神を信じ、真理を渇望するすべての人を選び、救われるのです。主イエスはこう言われました。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(ヨハ10:27)。真心をもって神を信じ、真理を渇望するすべての人、例えば、弟子ペテロ、ヨハネ、アンデレ、ナタナエルと一部の民は主イエスの道を聞いたため、それは主の声だと分かり、主に立ち返りました。聖霊は真心をもって神を信じず、真理を渇望しない人たちに対して働かれませんでした。彼らは当初のパリサイ人たちと同じで、まさに主イエスの働きによって淘汰される人でした。神がこのようにすれば、あらゆる人は明らかにされました。なぜなら、真理を求め、渇望する、聖霊の働きについて行ける人は神のどの段階の働きの中にも神の求めておられる人ですが、聖霊の働きについて行けない人は聖霊の働きによって淘汰される人です。こうして、善人と悪人という二種類の人は容易に分けられることができます。これはまさに神の知恵です!

これらが分かった後、わたしは気持ちがすっきりしました。しかも、主イエス・キリストが普通の姿を取って働くのは、へりくだり、控え目に振る舞うという神の本質をわたしたちに認識させ、わたしたちと神の間の隔たりを縮め、わたしたちに主イエスの言葉の中から真理の供給と牧養を得させるためだけでなく、真理を愛さず、いつも外見によって神を限定する、神に対する漠然とした想像に満ちている人を明らかにするためでもあると知りました。こうして、わたしは神がどのように仕事をしても、その仕事の中に神の意図、知恵があることを見ました。この面の真理を求めることによって、わたしは大きな収穫を得ました。これからは、わたしはパリサイ人の教訓をくみ取らなければならず、主イエス・キリストの外見によって、彼が神ご自身ではないと断定してはならず、ペテロ、ナタナエルのように、主の言葉を通して神の声かどうかを弁別すべきです。そうすれば、神を罪定めし、神に逆らうという間違いを犯すことはなくなります。

神の啓きに感謝します。すべての栄光を天におられるわたしたちの父に帰します!

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