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神との関係が正常かどうかを判断する三つの基準

神を信じるすべての人は、自分が神と正常な関係を築いて、神に認められ、神に良しとされることを望んでいます。しかし、人が神を信じると、神に良しとされることができるというのではありません。パリサイ人のことを例にあげましょう。パリサイ人は神を信じながら、神に逆らうようなことをしていました。彼らは神と敵対関係にあり、神は彼らが神を信じる人だと認めません。この事実から分かるように、神と正常な関係を結ぶことは非常に重要です! では、どのようにわたしたちと神の関係が正常かどうかを判断すべきですか。これはきっと、神を渇望するすべてのクリスチャンがしきりに知りたがることです。

一、神の前で心を静め、真に神と交わるべきである

わたしたちが自分は神と正常な関係を持つかどうかを知りたいなら、自分は神の前で心を静め、真剣に神の言葉を読むかどうか、真に神と交わるかどうか、すなわち正常な霊的な生活を持つかどうかを、まず見なければなりません。わたしたちは毎日詩歌を歌い、聖書を読み、毎回欠かさずに集会に参加しますが、でも多くの時、神の前で心を静めなくて、形式的にそうするのです。例えば、わたしたちは神に祈る時、いつも心の中で家庭のことや仕事のことを考え、神に対しては適当にあしらう態度を取ります。わたしたちはいつも聖書を読みますが、でもわたしの目的は神の言葉を通して真理を理解することではありません。わたしたちは、神を信じる人が聖書を読まなければならないと思って、やむを得ず手順に従って、大ざっぱに聖書を読み、全然真剣に聖書の言葉をかみしめず、そのため、なんら啓き、光を得られません。日常生活、仕事の中で、わたしたちはいつも肉の欲するままに行動し、未信者たちと同じように言葉を言い、ことを行います。これらの言動は、わたしたちが心の中に神を持たず、霊の中で真に神と交わらず、また神の臨在を感じられず、いつも弱くなり、無力になり、全然神と正常な関係を持たないことを、証明しています。

神はこう言われました。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:24)。神の言葉から分かるように、わたしたちが心の中で神に近づき、心を用いて神に触れてこそ、聖霊の啓きを得られます。わたしたちの仕事がどんなに忙しくても、神の前で心を静め、単一で誠実な心をもって祈り、清い心をもって一くさりの神の言葉を読むべきです。そうすれば、神の臨在を感じられ、また霊の中で充実感を得られます。わたしたちは家にいても、どんな場所にいても、神の前で心を静め、心の中で神に近づき、神の愛について黙想し、神の言葉をかみしめるべきであり、どんな困難にぶつかっても、どんなに弱くても、神に真情を打ち明けるべきです。そうすれば、わたしたちは聖霊がわたしたちの毎日の生活を按配し、顧み、守るのを感じることができます。こうして、知らず知らずのうちに、わたしたちが神の愛らしさを感じられるようになり、わたしたちの霊も強くなり、わたしたちと神の関係も親しくなります。

二、自分の意図を是正し、神の監視を受け入れるべきである

わたしたちはことを行い、言葉を言う時、自分の意図を是正し、神の霊の監視を受け入れ、神の言葉にしたがって実行しますか、それともすべてのことを自分の意志で行いますか。現実生活の中で、わたしたちは人とつき合うのにも、教会の仕事をするのにも自分の意図、目的があり、自分のすることなすことが神の心にかなうかどうかを考えず、自分に有利なことは何でもやります。例えば、わたしたちが働き、道を説く上で苦しみを受けるのは完全に祝福を得、神と取引するためです。わたしたちは小さな代価を払って大きな祝福を得ようと思い、神のために費やし、犠牲を払うことを、天の国に入るための手段としてしまいました。しかも多くの時、わたしたちは自分をひけらかし、自分が兄弟姉妹たちに重く見られ、指導者たちに高く評価されることを望みます。兄弟姉妹たちの霊的状態が正常でないのを見た時、わたしたちは表面的には彼らを助け、支えるのですが、わたしたちの目的は人を神の前にもたらし、人に神の御心を分からせることではなく、よい評判を残すことです。わたしたちの行ったことは全然神の前にもたらされて、神の監視を受けることができないのに、どうして神に良しとされることができるでしょうか。恵みの時代のパリサイ人のことを思い出してください。彼らは一生の中で労苦し、働き、犠牲を払い、費やしますが、彼らの目的は神を満足させることではなく、すべての人に重く見られること、地位、生活の道を得ることでした。だから、彼らがどんなに多くの苦しみを受けても、神は彼らを良しとしません。神の目には、彼らの行ったすべてのことは神と何の関係もありません。彼らは神を信じますが、神に良しとされず、神に悪を行う人だと言われました。主イエスが言われたように、「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」(マタ7:22-23)。ここから分かるように、神はわたしたちの働き、苦しみによってではなく、わたしたちが神を愛し、満足させるかどうかによって、わたしたちが善いか悪かを判断されるのです。もし、わたしたちが神の監視を受けながら言葉を言い、ことを行い、何をするのも真理を実行し、神を満足させるためであり、私利を図らず、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタ22:37)という主イエスの言葉を実行するとすれば、わたしたちの心を探る神はきっと、わたしたちのするすべてのことを喜んで受け入れられます。

三、試練を受ける時、心の中で神を愛することだけを求めるべきである

生活の中で不如意なことに会う時、わたしたちは神の御心を求めて、神を愛し、満足させることを追い求めますか、それとも神に対して観念を抱き、神を怨みますか。多くの時、わたしたちは神から来る恵み、祝福を享受することだけを望みます。一旦試練を受けたら、消極的になり、弱くなります。ひどいのになると、試練の中で神を激しく恨み、神と事の是非を論じ、神を誤解する者さえもいます。試練のゆえに、彼らと神の間のみぞがますます深まります。そのため、彼らと神の関係は完全に敵対関係であり、彼らの霊的状態は極めて悪いです。箴言書第17章3節で「銀にはるつぼ、金には炉、心を試すのは主」と書かれています。実は、神を愛する人であればあるほど、苦難、試練の中で真理を求め、神に依り頼んで、響き渡るような良い証しをすることができます。例えば、ヨブは自分が災いを受けるか、祝福を受けるかを問題とせずに神を信じていました。試練が彼に臨んだ時、彼の巨万の財産が強盗に奪われ、彼の子女たちが災いの中で死に、彼の全身に重い皮膚病ができました。しかし彼は唇をもって罪を犯さず、むしろ神の前に出て神の御心を求め、彼の長年の経験のゆえに、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名がほめたたえられよ」(ヨブ1:21)と言いました。そのため、彼は神に良しとされ、神のもっと大きな祝福を得ました。アブラハムもそうでした。彼は神の声を聞いた後、身を切られる思いで神に従い、独り子イサクを神に返し、響き渡るような良い証しをしました。そのため、彼は後人に「信仰の父」と呼ばれています。ペテロは一生の中で多くの試練を受けたが、神に不平を言ったことがなく、最終的に、神のためには逆さまに十字架につけられ、神を極みまで愛し、死に至るまで神に従うことができるようになりました。わたしたちの観念と一致しない様々なことが起こる時、わたしたちが彼らに倣って、軽率に結論を下さず、不平を言わず、真理を求め、神の支配と計画に従うなら、わたしたちと神の正常な関係を妨げ、破壊する人、事、物がなくなります。こうして、わたしたちは本当に神の御顔の光の中に生きるようになりました。

神の働きは霊妙で測りがたいです。神の知恵は尽きることのないものです。神と正常な関係を築くことこそが、わたしたちが霊的な旅を始めるための第一段階です。

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