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どんな人が神の救いを得られるか

日曜日の午前、日がさんさんと照っていて、庭の花がすがすがしい香りを放っていました。「天の上におられるわたしたちの父よ、あなたの御名が聖とされますように。あなたの御国が来ますように。あなたのみこころが天で行なわれているように、地でも行なわれますように。……アーメン!」と兄弟姉妹たちの祈りの声が集会所から伝わってきました。

説教者山下兄弟は説教壇に立ち、微笑んで皆さんに言いました。「今日、わたしたちは別のやり方で集会をしましょう。皆さんに何かの問題や分からないことがあったら質問してください。わたしたちは一緒に真理を求め、話し合いましょう。そうすれば、雰囲気を盛り上げることができるし、皆さんも重荷を持って積極的に交流することができます。そうしてこそ、もっと多くの真理を理解できます。主が準備してくださいますように。アーメン!」。

すると、席のほうで兄弟姉妹たちは論じ始めました。信徒Aさんは喜んで言いました。「山下兄弟のこのやり方はいいですね。そうすれば、皆さんが互いに交流し合うことができるし、兄弟姉妹の真理を求める心を呼び起こすこともできます。以後毎回このように集会をすれば、もっとよい効果を収められるとわたしは思います」。

どんな人が神の救いを得られるか

この時、井上姉妹は微笑んで言いました。「では、わたしはまず一つ質問を出しましょう! 主イエスが働いている間に、多くのしるしや奇跡を行われました。それはユダヤ全地にセンセーションを巻き起こしました。当時、一部の人は主イエスに従いました。しかし主イエスの働きに逆らい、主イエスの働きを罪定めする人もいました。例えば、神殿の中で神に仕えている祭司長、律法学者、パリサイ人は主イエスの宣べ伝えられた福音を聞いた後、探究せず、調べないばかりか、かえって至る所で主イエスを訴える口実を探し、主イエスの働きを誹謗し、罪定めし、最終的に主イエスを十字架につけました。同様に主イエスの働いた時代で生きていましたが、一部の人は主イエスにつき従うことができ、また一部の人は主に逆らう人になりました。これはなぜですか。一体どんな人が主の救いを得られますか」。

山下兄弟は少し考えてから言いました。「あなたの質問は非常に重要です。もしわたしたちがどのように神を信じれば成功の道をたどることができるかを知らず、失敗した人の失敗の教訓を総括し、汲み取ることができないなら、いとも容易に、神に逆らう滅亡の道をたどります。兄弟姉妹たち、この質問について交流する前に、わたしは皆さんに一つ質問したいです。主イエスが働いている間に、だれがまず主イエスにつき従うべきですか」。

すべての信徒はちょっと顔を見合わせてから、「聖書に精通する祭司長、律法学者とパリサイ人です」と答えました。

山下兄弟はこう言いました。「わたしたちの観念、想像のとおりだとすれば、主イエスは働かれた時、まず祭司長、律法学者、パリサイ人に啓示すべきでした。彼らが神殿の中で神に仕える人であり、しかも聖書に詳しく、毎日人に律法、戒めを教えたのですから、彼らは主の追随者のはずでした。あなたたちはそう思いませんか」。すべての信徒は「はい」と答えました。彼は続けて言いました。「しかし、事実はどうですか。彼らは主イエスの働きを見た後、探究せず、調べないばかりか、かえって攻撃し、罪定めし、逆らいました。最終的にローマ政府と結託して主イエスを十字架につけました。だが意外にも、なんらの名望、地位もなく、また聖書に詳しくないペテロ、ヨハネ、マタイたちは主イエスの召しを聞くと、すべてを捨てて主イエスに従い、最終的に主の救いを得ました。これで分かるように、神の性質は義で信実で、いかなる人も偏り見ないことです。神が人を救うのは、人の地位の高さ、資格の有無、神を信じている時間の長さによってではなく、人が真理を渇仰し、求める心を持つかどうかによってです」。

この言葉を聞いた後、すべての信徒は論じ合っていました。ある信徒はこう言いました。「神は本当に義なる方です。神の働きは本当に人の観念、想像と一致しないですね!人が真理を渇仰し、求める心を持つなら、神はきっと人を救われます!」。

この時、井上姉妹は何か分かったように言いました。「わたしの想像のとおりだとすれば、祭司長、律法学者、パリサイ人はまず主イエスに従うべきでした。思いがけずそれらの漁師、取税人が主イエスの働きについて行くことができました。主は本当に義なる方で、いかなる人も偏り見ません!」。

「では、なぜそれらの人が神の足跡に従うことができたのですか」と山下兄弟は言いました。

すべての信徒はこの問題が分からず、困惑の表情を浮かべて、互いに顔を見合わせていました……。

山下兄弟は聖書をざっとめくってみてから、落ち着いて言いました。「聖書の物語はわたしたちに答えを教えることができます。例えば、漁をするペテロとアンデレは主イエスの召しを聞くと、網を残して主イエスに従って行きました。同様に漁をすることで生計を立てているヤコブとヨハネは主イエスの召しを聞くと、漁船を残し、父親と別れて、主イエスに従って行きました。収税人マタイは主イエスの召しを聞くと、手元の仕事を捨てて主イエスに従って行きました。主のこれらの弟子たちはみな主イエスの召しを聞いた後、単純に主に従いました。また、サマリアの女は主イエスが彼女の行ったことをすべて言い当てたのを聞いてびっくりし、そして町に行ってすべての人に主イエスがキリスト、来たるべきメシアだと言いました。ニコデモは真理を求める心を持っていたので、夜イエスのところを訪れて、主イエスの教えを聞きました。そのため、神の啓きを得て、主イエスが神から来られた方だと分かりました。これらの人は謙遜な心をもって、虚心に主イエスの言葉、働きを探究し、調べたので、神の啓きを得、神の声を聞き、主イエスが神から来られた方、キリスト、預言されている来たるべきメシアだと分かりました。事実上、主イエスは道を説き、働く前に、だれにも前もって啓示しませんでした。彼は道を説き、働いた後、すべての人が彼の言葉を聞き、彼の働きを見るようにされました。彼がそうするのは、どんな人が虚心に真理を求め、神の出現、働きを渇望する人かを明らかにするためでした。それは主イエスが言われたとおりです。『わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている』(ヨハ10:14)。『わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う』(ヨハ10:27)。『求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる』(マタ7:7-8)」。

この時、井上姉妹は笑顔を浮かべて言いました。「ああ、あなたの言葉を聞いた後、わたしはすっかり分かりました。以前、わたしは地位、名望、賜物のある人たちが最初に神の啓きを得、神の働きの歩みについて行くことができると思っていました。しかし事実はわたしの観念、想像に反撃しました。神は地位、名望、賜物を問題にせず、人の神を渇仰する心を問題にするのです。これはわたしに主イエスの次の言葉を思い出させました。『心の貧しい人は、幸いである、天の国はその人たちのものである』(マタ5:3)。『義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる』(マタ5:6)。『心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る』(マタ5:8)。主に従う弟子ペテロ、ヨハネ、マタイたちは高い身分、地位を持たず、また聖書に精通しないが、主の召しを聞くと、主に従うことができました。彼らは虚心に主の言葉、働きを探究し、調べ、パリサイ人に束縛されず、すべての暗やみの権威を突破し、すべてを捨てて主イエスに従い、そのため神の救いを得ました。わたしたちは以後ペテロ、ヨハネたちに倣うべきです。主の到来に関しては、観念、想像によらず主の言葉によって判断し、謙遜な心をもって探究し、調べるべきです。そうしてこそ聖霊の啓き、導きを得、神の働きの歩みについて行くことができます!」。

信徒たちはこの言葉を聞いた後、論じ合っていました。ある信徒はこう言いました。「そうですね。わたしたちの以前のそれらの考えは確かに真理にかなっていないです。主の弟子ペテロ、ヨハネは確かにわたしたちの倣うべき者です。神は義で信実です。わたしたちが観念を捨てて、真心をもって調べるなら、神は同様にわたしたちに啓いてくださいます。こうして、わたしたちもペテロ、ヨハネ、マタイたちのように主の出現と働きを迎えることができます」。

この時、何か考えている様子の井上姉妹は言いました。「わたしはやはり分からないところがあります。あの時、そんなにたくさんの民は主イエスの道を聞き、主イエスの行われたしるしや奇跡を見、しかも道の両側に並んで主イエスの到来を歓迎しました。だが、後で大部分の民はパリサイ人と一緒に主イエスに逆らいました。これはなぜですか」。

山下兄弟はきっぱりした口調で、落ち着いて言いました。「あなたの出したこの問題はとても実際的です。わたしたちが知っているように、祭司長、律法学者、パリサイ人はみな宗教界のリーダー、宗教界の上層部の人たちです。彼らは神を信じている時間が長く、聖書を熟読し、地位、賜物を持っているから、大部分の民は彼らを仰ぎ見、崇拝し、彼らの聖書の知識と神学理論を真理として扱っていました。これらの民は神を信じているが、主イエスの言葉と働きが神から出たものかどうか、人のためになるかどうかについて探究したり、調べたりせず、盲目的に聖書の知識と地位、権勢を崇拝していました。パリサイ人が至る所で主イエスを訴える口実を探し、律法によって主イエスを罪定めした時、大部分の民は識別力がなかったので、パリサイ人に惑わされてパリサイ人のうそを信じてしまい、しかもパリサイ人と一緒に主イエスに逆らいました。こうして、彼らはパリサイ人の共犯者になりました。その上、彼らは主イエスが彼らの王にならず、彼らを導いてローマ政府の支配を翻さず、また宗教のリーダーたちに罪定めされ、逆らわれるのを見た時、主イエスの言葉と働きを否定しました。当時、彼らはこう思っていました。イエスがキリスト、メシアであれば、彼は王になって、あらゆる人から推戴されるはずだ、彼がキリスト、メシアなら、どうして罪定めされ、見捨てられることがあろうか、と。だから、主イエスの働きが彼らの観念に適わない時、彼らはパリサイ人の側に立ってパリサイ人のお先棒を担ぎ、主に逆らい、主を罪定めしました」。

井上姉妹はこれらの言葉を聞いた後、興奮して言いました。「神に感謝します。あなたのこれらの言葉によって、わたしはこういうことが分かりました。すなわち、大部分の民がパリサイ人と一緒に主イエスを罪定めし、逆らうのは、彼らが人を仰ぎ見、崇拝し、権力、地位に束縛され、しかも真理を求めず、全然識別力を持たず、自分の観念と想像だけによって主イエスの働きを扱ったからです。だから、主を迎える上で、わたしたちは神を畏れる心を持たなければならず、牧師、長老の言葉だけを信じてはなりません。そうすれば、いとも容易に惑わされ、騙されて神に逆らうようなことをしてしまいます。そうなると、神に懲罰されます」。

この時、山下兄弟はこう言いました。「そうですね。再来される主の働きかどうかを判断する時、わたしたちは意のままに論断したり、罪定めしたりすることなく、神を畏れる心をもって、虚心に探究し、調べるべきです。こうしてこそ、聖霊の啓き、照らしを得られます。そうなったら、わたしたちは神の働きの歩みについて行き、神の救いを得ることができます!」。

この言葉を聞いた後、信徒たちは微笑みながら論じ合っていました。ある信徒はこう言いました。「そのとおりですね。今日このように交流しなければ、戻ってくる主を迎えることにおいて、わたしたちもあの時の識別力を持たない民のように、地位と権威がある牧師、長老たちを崇拝し、自分の観念と想像によって神の働きを扱うはずです! 神は義なる方であって、へりくだり、真理を求める人が好きです。ペテロのような人こそ神に良しとされることができます。そうですね。もしわたしたちがひたすら牧師、長老の言葉に聞き従って、弁別をしないなら、いとも容易に惑われます。わたしたちはペテロ、ヨハネたちに倣って、神を畏れる心をもって真理を求めなければならず、ことに当たっては多く祈り、神の意志を求め、神の声に留意しなければなりません。そうしてこそ、神の足跡に従い、神の救いを得ることができます!」。

すると、すべての信徒は「神に感謝します。アーメン!」と言いました。

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