エチオピアの宦官が福音を受け入れたことによってもたらされる啓示

    2017年 10月 30日

    聖書にこう記されています。「さて、主の天使はフィリポに、『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け』と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財政の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。

    すると、「霊」がフィリポに、『追いかけて、あの馬車と一緒に行け』と言った。フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、『読んでいることがお分かりになりますか』と言った。宦官は、『手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう』と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。彼が朗読していた聖書の個所はこれである。『彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ』。宦官はフィリポに言った。『どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか』。そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。『ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか』。フィリポが、『真心から信じておられるなら、差し支えありません』と言うと、宦官は、『イエス・キリストは神の子であると信じます』と答えた。そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた」(徒8:26-38)。
    以上は、エチオピアの宦官が主イエスの福音を受け入れる過程の記録です。わたしたちが知っているように、当時このエチオピアの宦官は地位、名望が高く、しかも敬虔なクリスチャンでした。彼はエルサレムに礼拝に来て、帰る途中でフィリポに出会いました。フィリポが彼に読んでいることが分かるかと聞いた時、彼は自分の身分と聖書の知識を鼻にかけず、また高慢ではなく、自分の身分と地位を考慮せず、謙虚にフィリポに教えてもらいました。フィリポが彼に主イエスの働きを告げ知らせる時、彼は自分の観念を守って逆らったり、罪定めしたりすることなく、単純で従順な心をもって主イエスの働きを受け入れました。
    このことから分かるように、エチオピアの宦官は神を信じる上で、真理を渇仰する心を持っていました。彼は真理を理解するために、進んで自分を低くしました。最終的に、彼は彼の真理を求める態度のゆえに、主イエスの救いを得ました。
    だが、当時律法を守っているパリサイ人たちはそうではなかったのです。彼らは聖書をすらすらと暗唱でき、海と陸を行き巡ってヤーウェ神の律法を宣べ伝えていましたが、保守的で主イエスのなさった新しい仕事を受け入れようとせず、自分たちの観念、想像をかたくなに守り、全然真理を求める心を持ちませんでした。彼らは自分たちの地位と生活の道を守るために極力主イエスの働きに逆らい、主イエスの働きを罪定めし、最終的にローマ政府と結託して主イエスを十字架につけました。そのため、神に呪われ、懲罰されました。以上から分かるように、主の到来に対する人の態度が違えば、人の得る結末も違います。
    今、世の終わりはもう来ました。主イエスはかつて、彼がまた来ると約束されました。しかもヨハネの黙示録に「わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て」(黙14:6)と預言されています。ここから分かるように、主は再来される時、永遠の福音を地上に住む人々に告げ知らせられます。だから、わたしたちは目を覚まして待つべきです。もしだれかが再来される主イエスの働きと言葉を宣べ伝え、証しするなら、わたしたちはエチオピアの宦官に倣って、謙虚に真理を求めるべきです。そうしてこそ、世の終わりの救いを得て、主と共に宴席に着くことができます。それは聖書に預言されているとおりです。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙3:20)。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」(マタ5:6)。「心の貧しい人は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタ5:3)。わたしたちの地位が高くても低くても、わたしたちの神を信じる時間が長くても短くても、わたしたちが宗教的観念を捨て、謙虚に真理を求めさえすれば、神の啓き、導きを得て神の足跡に従うことができます。そうなったら、神の世の終わりの救いを得ました。

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